「おはようございまぁす」

背後から、拍子抜けするほど呑気な寝惚け声が聞こえた。

しかし、テリィにとっては、それはまさしく天使の声であった。

 

「どうしたの? テリィ。なんだか顔が強張っているみたい」

座ったまま微動だにしない夫を、半分だけ開いた緑の眼でキャンディが見つめる。

「いや……おはよう、キャンディ」

テリィは妻の姿だけを視野に収めようと、無理に首だけを回転させた。

ぐき……っ。

「いててて……ッ!」

 

「ちょっと! 大丈夫? テリィ」キャンディは慌ててテリィに走り寄る。

「まさか夕べ寝違えたの?」

「ち、違うよ。……大丈夫だ」

 

首の付け根を摩りながら、テリィは正面を向けないでいた。シベリアの雪壁の如く立ちはだかる存在をぴりぴりと皮膚に感じる。

その体躯もさることながら、十数年に及ぶ戦士の武勇伝(武勇伝などではないと彼は頑なに否定していたが)を聞いただけで、喧嘩をしたら自分の方が圧倒的に不利だということは解っていた。

 

一方で、テリィは、キャンディにも微かな後ろめたさを感じていた。

ほんの一瞬のことではあった。

彼女ユリウスは、恐らく意識もせず、ましてや演技でもなく、素直な気持ちが口から零れただけなのだろう……。

だから尚更、始末が悪い。

 

──惑わされた? 気の迷い?

そんな言い訳は通用しない。今は朝だし、酒も飲んでないし、酔ってもいない。

そして彼女は天使でも妖精でもない。

──生身の人間なのだから。

 

考えてみれば、キャンディにも、少なからずそういうところはあった。

けれど、彼女がそういう性質でなかったら、出逢った時から自分とは互いに相容れなかっただろう。

(妬心の強い男には、少々酷な相手だよな……お互いに)

少しだけ、テリィは戦士に同情を覚えた。

 

「おはよう、キャンディ」

その逞しい体躯に柳のように寄り添ったオーナー夫人が、にっこり微笑む。

否、どちらかと言えば、オーナーの方が彼女の腰をがっしりと摑んでいるように見える。

(ふふ……、いつもながら仲が良いわね)

キャンディは朝から幸せな気分に浸った(夫の気も知らんと)。

 

 

 

 

 

「どうぞ、アイリッシュシチューです」

オーナー夫人が湯気の立った皿をテリィとキャンディの前に並べた。

 

「わぁ、いい匂い」

キャンディが鼻をひくつかせる。

テリィの空腹感も、あっという間に復活した。

「先代のオーナー夫婦がアイルランド出身で、これが宿の売りだったみたい。せっかくだから伝授してもらったの」

 

「美味い……」テリィの心からの声である。

「良かった。まだまだ勉強中だけど、いつか自分だけの味を作りだせたらなって……」

 

「じゃあ今度来る時は、また違った味になっているのかもしれないのね」スプーンを持ったまま、期待に満ちた目つきでキャンディは言った。「楽しみだわ」

「また来てくれるの?」オーナー夫人の表情が輝いた。

「良いわよね? テリィ」先走っただろうかと、キャンディはテリィの顔をそっと窺う。

 

「勿論」あっさりとテリィは答えた。「これから、俺たちの常宿にしよう」

「本当?」キャンディは口に持っていきかけたスプーンを無造作に皿に戻して、テリィに抱きつく。「素敵っ! ありがとう、テリィ」

「おいっ、シチューがはねるよ」

 

「アイリッシュシチューもいいが、ボルシチも忘れないでくれよ」

微笑ましいカップルを眺めながら、くすくすと笑っている妻に向かって、駄々っ子のように男が言った。

「じゃあ今夜作りましょうか? だんなさま」艶然と彼女は微笑む。「それなら、ビーツを買ってこないとね」

 

「明日でいいよ」ばつが悪そうに咳払いする男。

「それよりねぇクラウス、ぼくたちの最初の常連のお客様だよ」

彼女は目を細めて夫を見つめた。

「そうだな」オーナーは姿勢を正し、うやうやしく頭を下げた。「今後とも、ご贔屓の程よろしくお願い致します」それから、さりげなくテリィに視線を投げる。

 

テリィは右側の口角を少し上げ、涼しい顔でそれに応えた。男の目に狼狽の色が微かに映った。

                                                    

「ね、ね、今度はいつにする? テリィ」

「君、気が早いなぁ」テリィが目を丸くする。「今日帰るのに、もう次の休暇の相談かい?」

「いっけない。そうでした」キャンディはぺろっと舌を出した。

 

淡い陽射しが降り注ぐ窓辺で、金色の髪がキラキラ揺れた。

 

 

 

 

 

食事の後、キャンディはオーナー夫妻に、ヴァイオリンの演奏をねだった。

二人は快く承諾した。

「私たちが此処に来た日に聴こえてきた曲を、もう一度聴きたいの」

 

「『ロマンス』だね」ユリウスは嬉しそうに微笑んで、ピアノの鍵盤蓋を開けた。

クラウスは、ケースからヴァイオリンを取り出す。

演奏が始まると、潮が満ちるように、キャンディの心は幸福感でいっぱいになった。

重なり合う音色は、リビングの高い天井まで浮遊して、窓を抜け、島の上空で澄んだ風になった。

 

キャンディはソファに座り、うっとりとした表情で演奏者たちを眺めていた。

「音楽は国境を超えるのね」

「ああ、芝居と同じ……」

キャンディはテリィを見て、ゆっくりと頷いた。

 

 

帰り際、キャンディとユリウスが別れを惜しんでいる間、玄関口で待っていたテリィにオーナーが歩み寄る。

「朝は……悪かった」低く押し殺した声で男は言った。「大人げなかったよな、俺」

 

「気にしないでください」テリィは吹き出しそうになるのを必死で堪える。「自慢じゃないですが、嫉妬深さなら俺も負けていませんので」

 

「何の話をしているの?」キャンディがこちらを振り向く。

「ちょっとね──男の愚かさについてだよ」

舞台台詞のように、粛然とテリィが言った。直後、クラウスが吹き出した。

 

「男、の?」キャンディは首を傾げる。「意味が解らないわ」

 

「二人とも、急に仲良くなったんだね」

ユリウスの言葉に、今度はテリィが大笑いした。隣りでクラウスは苦笑する。

「え、違うの?」

 

きょとんとした顔をして、ユリウスは最愛の男を見つめた。男は無垢な天使にキスをする。

真っ赤になった天使を横目に、テリィは素早くキャンディの両目を掌で覆い、

「何? テリィ?」

と驚く愛らしい唇を封じた。

 

甘い歓喜が彼の口腔いっぱいを満たした。

 

 

 

 

 

音符本日のエンディン音符『PIECES OF A DREAM』CHEMISTRY

久し振りに聴きました。懐かしかった。そして歌詞がテリィに重なるかも…と思った。

 

 

 

つぶやき

 

20話です。

キリが良いのか中途半端なのか、微妙なところですね。

 

ニューヨークでの別れのシーンの妄想が浮かんだ時、こんなエピソード書いていいのかはてなマーク と確かに一度は思いました。

しかし、浮かんだら書かずにいられないのが二次作家の性ガーン(えはてなマーク)。

 

わざわざ別アカウントを作ってまで書いて良かったかはてなマーク 良かったですうさぎ真顔。

「美紅」で放置状態だった『窓&飴』シリーズとも絡めることができて大変満足しています(混乱させてしまったらごめんなさい)。

 

さて、それでなのですが。

暫くの間、本アカの方に専念しようと思います。

ただ、そうは言いましても。

突発的に妄想が湧くタイプなので断言はできません。(プロットはてなマーク 何それはてなマーク わくぁんなぁい~宇宙人くん

 

それでも、「ハートの4」の更新を心待ちにして下さる方がいらっしゃったら申し訳ないので、一応お断りしておきます。

短い期間でしたが、本当にありがとうございましたピンク薔薇

 

 

〖おまけ〗

 

《問題》

「ハートの4」は何から取った名前でしょうかはてなマーク

①ベルばらトランプからテケトーに引いた。

②某🍬ズの「ハートのエースが出てこない」からもじった。

③エラリィ・クイーンの小説のタイトルである。

 

まじかるクラウン気が向いたら「美紅」の方へも遊びに来てください。

ご訪問お待ちしていますハートのバルーン