この日を忘れないよう書き留めておきたい。
本日12月21日(月)大動脈弁閉鎖不全症と血管バイパス術

息子として、歯科医師として
備忘録として



熊本県水俣市の親父から
心臓が悪いので熊本大学に検査入院するからと
相談されたのは確か、9-10月ころだったかな。
元々、腎臓が悪いのは聞いていたのだが。

はじめは大学の循環器内科への紹介となり
病名は
大動脈弁閉鎖不全症と診断。人工弁に取り替えないと2、3年したら突然死もありうると…
11月にカテーテルによるオペ、TAVIを主治医から説明された。新しい治療法で熊大でも6年ほど前に導入された方法だとか。

親父も乗り気だった、2-3時間で終わるオペだし外科手術を伴わない。
しかし、造影剤を使用するため腎臓の悪い親父は透析が早まる可能性もあると…説明を受けた。

そして、11月中旬に術前カテーテルにて診断のため心臓の機能を調べるため造影検査を実施。
心臓の血管自体に狭窄部が2箇所ある、一緒にバイパス手術するなら開胸手術も一考と心臓外科外来へ。

色々、説明を受けて
心臓外科の開胸手術を選んだ。
というか、説明されても耳の悪い親父に僕が、
昔からある確実スタンダードと言われる開胸外科手術が、いいのではと私自身が丸め込んだ形になる。

父親は、歯科医師として働く私に
絶大なる信頼を寄せていたで
乗り気でなかった、外科手術を受けいれた…

私自身、日常臨床において
患者さんへ術式に困ったら、スタンダード、エビデンスの多い方を選択する性格だったから。

オペは12月にと決まった。
親父は年内にオペを受けたい終わりたい、

とブツブツ言って周りを困らせていた。

たまに、階段あがる時胸が痛いとも。

私は、オペ前の説明に同席するため
自身の歯科医院の休診を利用して熊大へ日帰り往復した。何回か往復した。往復車の運転4時間以上。

その度に腰が痛んだ。

50歳を目前に、こんなに運転が疲れるものだと
自分の老いも、ついでに感じてしまった。

やはり、仕事も大事だが
私は、それ以上に大事なものがあると
知っている気がします。

私のいない間、歯科医院をなんとかする
チームスタッフに感謝。

親父には小さい頃から、厳しく育てられ、教育の機会を与えられた。一番の恩を感じている存在です。
親父の私に対する教育がなければ
今の自分、今の家族そして今の仕事はない。
一体、どんな人生だったのか想像できない。

そして、今日が親父の心臓のオペ日
長い一日が始まった
5時24分発博多行き始発に乗るため最寄り駅
妻に送ってもらい

まだ、夜明け前、最寄りの浦田駅。
博多で乗り継ぎ新幹線で熊本駅を目指す。


熊本駅からタクシーに飛び乗り

大学病院の親父のベッドサイドには
7時40分過ぎには立つことができていました。
着くなり、親父とお袋が毎度のことながら
口喧嘩をしていました…
よくこんな心臓のオペ前に口喧嘩なんて
できるな…と。これが長年の夫婦の日常。

大学病院はコロナのため
オペの付き添いくらいしか面会が許可されない厳戒体制。許可してもらえるだけ、助かります。
8時25分に、オペ室移動の車椅子が準備され
お袋と私でオペ室前まで見送った。

もう会えなくなるのでは?との思いもあり
お袋と私で
親父と握手をして「頑張ってと」見送りました

久しぶりに親父と握手
そして、あんなに背中が小さな親父をはじめてみた。親父は車椅子で手術室に消えていきました。
オペ室周辺は朝から、バタバタスタッフが行き交い戦場の準備に入っているかのよう。

予定通り8時半にオペ室に入り
麻酔の準備などで約1時間、実際の開始は9時半スタートで終わるのは15時予定。

私とお袋は
患者待合室で待つことに

窓からは、白川が見え、金峰山?を眺めることができ懐かしい風景でした。
私は、ここぞとばかりに、事務的な仕事をこなし

母親は、どこから準備したのか編み物をせっせとはじめて、私の所にミカンやお菓子を食べろと
何度も仕事の邪魔をしにきた。
その都度、集中が途切れるので断った。

母親の携帯はガラケーだし
時間が潰れないのと
落ち着かなかったのでしょう。

私は食欲がなく、昼御飯は喉を通りませんでした。
途中、高校時代の空手部の同級生で熊大に進学し脳外科医の友人が顔を出してくれて、近況報告しあい、少し心が穏やかになることができた。

14時
執刀医から「無事終わりました」と報告があり
お袋と安堵しました。あと、後処置に1時間かかると。

15時半
担当医から、オペ後脳梗塞の可能性、人工透析移行の可能性の説明を受けた。やっと訪れた安堵の中なのに、また不安材料が増やされた。
どんな医師も必ず最後はデメリットの説明で締めるものだと、自分に言い聞かせた。

16時過ぎには
大学病院の東門を出て、母親は緊急時に備えてホテルへ、私は新幹線にのるため熊本駅までタクシーに乗った。

18時15分に、残務のため自歯科医院に立ち寄った。積みあげられたカルテを全てチェックした。
19時には自宅で食事を済ませ
疲れた体を休めるため
20時過ぎにはベッド上で、携帯をいじって寝ようとしていた。

21時ちょい過ぎ、携帯が鳴る
「096-○○○-○○」熊大の番号、嫌な予感…

担当医
「血圧か80から上がらない、このままだと危険、ドレーンが詰まって…」

私「ドレーンが詰まる?」
私は口腔外科に勤務し、ドレーンの重要性を
一般素人よりしっている?

心の中でドレーンは、体の中の滲出液を体外に出すもので、なぜそんな大事なものがつまるのか…
叫んだ。おおいに叫んだ。
怒り、不安、心配、焦り、父親の死を人生初めて間近に感じた時だった。

担当医「緊急手術になります…再度開きます」

こんな夜間に再度、縫合部を開く?
そんな事ある?不安でしかなかった…
22時前だろうか、、
親父はまだ全身麻酔がきいたままだ
こんな目に合うとか、寝ている親父は知らないだろう。
もし、これで死に至るとしたら
本人は不本意だろう

心外の担当医からは
さまざまな説明を受け、さまざまな悪い可能性は聞き医療従事者でもある私は
多くを納得はしていた。しかし、当日再手術、承諾を迫られるのは全く予想して無かった。
もうお願い、祈るしかなかった。

500のペットボトルの水を飲み干し
風呂に入り、車で熊本まで飛ばす体勢、気持ちを
切り替えていた。

深夜
12時前に
お袋からメールが入った
「緊急手術は終わり、血圧は120、再びオペ室をでてICUへ無事運ばれた」

本日二回目の安堵感。

こんなに患者は医師の言葉で
心が
右往左往するものかと。

色々気づかされる…

これが、今日一日の話。

忘れたい一日のストーリー

しかし
親父が元気になった時、
「あなたが全身麻酔で眠っていたころ、こんなことが起きた」と伝えるため

長文ですが
書き留めておきます

2020年12月21日 深夜
今井光義の長男 光

Ps 、患者さんの予約が朝から100名近くあります。少しの間、私もベッドの上で休みます。
きつかったね、親父。