雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治のアメニモマケズの

「みんなにデクノボーと呼ばれ

褒められもせず、苦にもされず

そういうものに私はなりたい」

ってところが、

なんかやられっぱなしみたいで悲しいから

なんだか納得できかねるなぁと感じてたけど、

最近、なんだかわかったような気がしました。

みんなにデクノボーなんて言われたら、

やっぱり傷つくかもしれないし、引きずるかもしれない。

だけどそれでも

「欲はなく、けっして怒らず、

いつも静かに笑っている」

ような人でありたいっていう気持ちは、逃げではなくて、

自己肯定とか自己信頼とか自信の賜物だからってことじゃないかなぁ。

自己価値や自己評価を、他人の意見によって変えていては辛いだけです。

人の言葉に、いちいち惑わず、自己卑下も他人卑下もせず、

笑って流せるようなぶれない強い人でありたいって気持ちだったら

すごくわかるなぁ。なんて。



そしてその他の、東へ西へのはたからは自己犠牲に見える行為も

彼にとってはちっとも自己犠牲ではなかったんじゃないかなと思います。

彼はやりたくてやっていたように思うので

それはたぶん愛で、

それが彼の喜びや目標だったんだろうと思うのです。

でも反面、人の気持ちに寄り添いすぎて、

自分を見失ってしまうこともあるかもしれない。

それって繊細さや優しさゆえの罠みたいなものかもしれないなぁ。



でもそんなシリアスになりがちな自分をこの詩に託して

客観的に見て自分を笑えれば、

すぐに戻ってこれるかもしれないなぁと思ったので

本来の詩の受け取り方と違うだろうけど

これからは、私はそういう風に使わせてもらおうかなw

と思いました。

あと、スクナヒコナっぽいなっておもいました。