看取りの話 | MAJOの家

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「メメントモリ」

(死を想え)

 

今日は

 

ちょっと厳しい言葉に

なってしまうかもしれません。

ごめんね。

 

まだ

読むタイミングではないと感じた方は

スルーしてね。

 

 

花

 

 

昔から

「癌の告知」というのは

とてもセンシティブな問題で、

 

本人にどう言うべきか、とか

家族や親しい人に何と伝えるか、とか

 

色々悩ませる問題です。

 

 

どうしてこう

問題が複雑になるかというと、

言葉によるイメージが

膨らみすぎたからでしょう。

 

試験に受かった、落ちた、みたいに

良性だった、悪性だった、と

一喜一憂するのも同じ。

 

病名ばかりに囚われる。

 

 

ほんとうは

 

そんなことよりも、

何故それを作り出したのか、

 

そこに焦点を当てるべきなのに、

誰も教えてはくれない。

 

そういう視点を失っているから。

 

 

この身体、人生は

ギフトであって、

「手に入れた」もの、ではありません。

 

失う、という想いは

妄想でしかありません。

 

命が尽きるまで、

生ききるまで、

最後の一息まで、

それがギフト。

与えられたもの。

 

どんなふうにこの身体を使ってもいいの。

ボロボロにしても、

大事にしまい込んでも、

好きなようにしていい。

どんな体験も

唯一のもの。

 

 

 

病気の身体を作り出したのは、

自分です。

 

限りある命の時間を

鮮明にしたのは病気です。

 

それは

諦めるために生じているのではなくて、

本意を思い出すために

出された現実です。

 

 

今、

 

打った人たちの身体から、

たくさん病気が見つかり始めています。

 

それは

 

時代の節目の今だからこそ

このタイミングで

地球を去ろうと

決めていた魂かもしれない。

 

自分を粗末にした結果で

起きたことかもしれない。

 

 

何にしても、

わたしたちはいつでも

有限の人生の時間を使っている。

 

「暇つぶし」なんて簡単に言うけれど

命を潰しているなんて

それは自分を粗末にしすぎです。

 

 

入院して、

自分の家で死ねないから可哀そうとか、

長生きできないから可哀そうとか、

旅行に行けないから可哀そうとか、

美味しいものを食べられないから可哀そうとか、

欲しいものを買えないから不幸だとか、

願いが叶わないから不幸だとか、

 

ダメ認定の項目が

多すぎる。

 

しんじゃダメって言うのも、

苦痛だよ。

 

こんな人生だからダメって、

誰が決めているの?

このままじゃダメですって、

誰が決めたの?

 

ダメなことはひとつもない。

 

 

きっと

ダメだと思ったから打ったんでしょう。

 

打っちゃダメ、打たなきゃダメ、

 

ダメ合戦は同じこと。

 

死を見たくないから、

ダメだと主張するの。

 

死は当たり前なんだよ。

 

 

わたしたちは

何度も何度も

肉体をもらって生きて、

脱いで、

生きている間にしかできないことを、

精一杯やっている。

 

 

親しい人だから、悲しいの?

家族だから、悲しいの?

 

見送れないのは

相手を掴んでいるから。

 

 

誰が先でも後でも、

 

明日はないと思って、

お互いに

精一杯

向き合うのよ。

 

どんなふうでも、

豊かにしあわせに生きられるよ。

決めるのは自分の心。

 

 

わたしは

 

病院で寝たきりになって

家族が誰も来なくて

毎日ひとりで過ごしている患者さんが

わたしのために

給食のデザートを大事にとっておいて

いつもありがとうって

一生懸命伝えてくれた人を

今でも覚えているの。

 

たくさん励まされて応援されて

感謝されて

笑顔をもらって

わたしは看護師として働いていた。

 

その方は

病院のベッドで一人で亡くなったけれど

家族でも血縁でもない

病院のみんなから

とても愛されて

最後の一息まで

愛のなか、

見守られて去っていった。

 

 

最後の一息まで、

生ききる。

それだけなの。

 

誰が先でも、後でも、同じなの。

 

 

看取ることが出来るなら、

そのお役目をいただけたということ。

しっかりしなくちゃね。

 

 

大事なひとが

去ってゆくことに

胸が痛まないわけではないけれど、

そこで立ち止まることはないのです。

 

これから

もっともっと、

卵の殻がむけるみたいに

変化が起こっていくでしょう。

 

桜の花が散っていくみたいに

たくさんの命が去っていくかもしれない。

 

立ち会うお役目があるなら、

そこにいるでしょう。

 

 

悲しむのではなく、

出来事に怒りを持つのではなく、

目の前の人に

愛しているよと

たくさんの方法で

伝えていきましょう。

 

 

それが

看取る、ということだから。