MAJOの家

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こんにちは。

 

つぶつぶの絵を描く人がいますね。

 

知り合いの方でも、

世界がつぶつぶに見える、という人がいます。

 

今日は

その辺の話になるかな。

 

 

花

 

 

地球は

水の星です。

 

学生の時に知った話では、

地球の表面の約70%は

水で覆われているのだとか。

 

そして

人の水分量も約70%で、

赤ちゃんだと80%くらい。

高齢になるにつれて

60%台まで減っていく。

 

 

「死んだら海に撒いて」とかね。

どこに埋めるかとか

そんな話もあるけれど、

実はそれは

30%にも満たない物質です。

 

土に還るばかりではなく、

 

わたしたちは

本来

水、なのだと思う。

 

 

花

 

 

神話の話によると。

 

黄泉の国から戻った

イザナギさんの

左目からアマテラスが、

右目からツクヨミが、

鼻からスサノオが生まれます。

 

アマテラスは天の国、

ツクヨミは夜の国、

スサノオは海原、

それぞれを統治するお役目をもらいます。

 

そして、

初めて

この地球に国を作ったのは、

スサノオだったと、

表さんの本には書かれていました。

 

海を統治するスサノオが

わたしたちの国造りの始まりを作ったと。

 

水の星ならでは

ですよね。

 

 

花

 

 

水は

膜によって保たれて、

細胞というものを作り、

細胞を繋いで

様々な形を作り出しています。

 

細胞同士は

膜を介して

情報交換しています。

 

そして、

中にある情報を用いて、

それぞれの役割を決めて、

ひとつのかたちを作り出しています。

 

 

また、

 

水は

流れたり、水蒸気として飛んだり、

朝露のように降りてきたり、

あるいは

形を変えながら、

 

常に循環しています。

 

 

地球上でも、

わたしたちの身体の中でも

たえず

循環し続けています。

 

水中と、

わたしたちが住む大気中は、

水分量の違いがあるだけで、

水の中にいることに

かわりはありません。

 

 

川の流れ、

海の流れ、

風の流れ、

 

全て循環しています。

 

 

わたしたちはその中にいて、

独立した

「身体」を作り出し、

その中で

またひとつの循環を作り出しています。

 

 

「水」

として見えるもの以外は、

 

「水」を含む膜で作られたものです。

 

わたしたちは

「水」を本質的に持っていて、

それが

この地球での「命」のかたちです。

 

 

水が淀み、

汚れてくると、

元の大きな流れに乗って、

浄化の循環に加わろうとします。

 

膜の中の水が

汚れてきたら、

水は元に戻ろうとします。

 

 

膜を脱いだら、水です。

 

 

良い波動のものを身体に入れようとか、

良い波動を浴びようとか、

心地よい音楽、

心地よい言葉、

心地よい感情、

心地よい場所、

心地よい関係、

 

そんなもの、

何の意味があるの、と思うでしょう。

 

 

 

それは「水」が求めているからです。

 

損得ではなく

本質的なことなのです。

 

 

花

 

 

 

世界がつぶつぶに見えるのだとしたら、

それは

水を見ているのではないかと思います。

 

 

水は時として

とても強いエネルギーとなって

押し寄せてきます。

 

それでも、

この星は水の世界で、

循環のなかにあって、

全ては

記憶と浄化の働きなのだとしたら、

 

 

わたしたちに出来ることは

 

何でしょう。

 

 

花

 

 

保江邦夫さんは

 

宇宙について

 

泡のなかに真空がある、

その泡がたくさん集まったものが宇宙である、

と言っています。

 

石鹸成分みたいに、

泡泡を作り出している、

この真空を包み込んでいる部分のところに、

「完全調和」が満ちているのだそうです。

 

 

 

 

というわけで。

 

 

膜のなかに水を含む地球の命の成り立ちも、

宇宙の成り立ちも、

 

とても似通っている点は、

 

「世界はつぶつぶになっている」

 

ということに

繋がるな、と思って、

 

今日は

イメージを膨らませてみました。

 

 

虹

 

 

それでは、

今日はこの辺で。

 

心地よいゴールデンウイークを

お過ごしくださいね。

 

 

 

こんにちは。

 

今日は

軽めに書いてみますね。

 

 

花

 

 

頑張り屋さんは、

わたしのまわりにもたくさんいるけれど、

 

怠け者さんは、

あんまりいない気がしますね。

 

いるけど、

隠れているのかな。

 

 

頑張ることを求められる社会なのでね。

 

 

 

我が子達には、

いかなる時にも

 

 

「○○だけど、がんばります!」

「○○なので、がんばります!」

って言えばいいよ、と教えていて、

 

お陰様で

挨拶のプレッシャーは

ほとんどないみたい。(笑)

 

 

でもね。

 

やっぱり頑張るのは

あんまりおススメしないですね。

 

気づいたら頑張っていた、くらいがいいですね。

 

 

 

「頑張る」の対極にあるものは、

本当は

「怠け者」ではなくて、

「大切に扱う」

「丁寧に扱う」みたいな。

 

柔らかく包み込むようなことではないかしら。

 

 

 

頑張る、ことの

原動力となるものは、

 

 

自分で自分を認めたい、

 

誰かに認められたい、

 

悔しさなどの強い感情、

 

劣等感、

 

 

そういったものでしょう。

 

 

 

それらは

そろそろ

終わりに出来たらいいですね。

 

勝たなくても

成功しなくても

どうでもよくなる時代が来ます。

 

目指す方向は変わるし、

負けも失敗もない、

しあわせを知る時代が来ます。

 

 

そして、

結果として

成功しかない世界になる。

 

 

 

だからね。

 

上ばかり見上げるよりも、

 

のんびりして、

自分をよく観察することです。

 

 

切羽詰まってきたり、

無理しているかな、

感情が暴走しているかな、

 

そんなときは、

 

休む。

足止めが来る前に、

休む。

 

いい加減にするということではなくてね。

 

もっと

そのままで認めても、

いいんじゃない?

 

 

キラキラしたものを追いかけすぎて、

大事なことを

見失わないように。

 

 

ほんとうに

キラキラしたものは、

 

ちょっと見えにくいものだから。

 

 

 

いい?

 

地震は起こる。

放射能は漏れている。

土地は汚れている。

人々は色んなことに怯えている。

 

 

それでも

花は今日も咲いている。

わたしたちは

生きている。

 

「メメントモリ」

(死を想え)

 

今日は

 

ちょっと厳しい言葉に

なってしまうかもしれません。

ごめんね。

 

まだ

読むタイミングではないと感じた方は

スルーしてね。

 

 

花

 

 

昔から

「癌の告知」というのは

とてもセンシティブな問題で、

 

本人にどう言うべきか、とか

家族や親しい人に何と伝えるか、とか

 

色々悩ませる問題です。

 

 

どうしてこう

問題が複雑になるかというと、

言葉によるイメージが

膨らみすぎたからでしょう。

 

試験に受かった、落ちた、みたいに

良性だった、悪性だった、と

一喜一憂するのも同じ。

 

病名ばかりに囚われる。

 

 

ほんとうは

 

そんなことよりも、

何故それを作り出したのか、

 

そこに焦点を当てるべきなのに、

誰も教えてはくれない。

 

そういう視点を失っているから。

 

 

この身体、人生は

ギフトであって、

「手に入れた」もの、ではありません。

 

失う、という想いは

妄想でしかありません。

 

命が尽きるまで、

生ききるまで、

最後の一息まで、

それがギフト。

与えられたもの。

 

どんなふうにこの身体を使ってもいいの。

ボロボロにしても、

大事にしまい込んでも、

好きなようにしていい。

どんな体験も

唯一のもの。

 

 

 

病気の身体を作り出したのは、

自分です。

 

限りある命の時間を

鮮明にしたのは病気です。

 

それは

諦めるために生じているのではなくて、

本意を思い出すために

出された現実です。

 

 

今、

 

打った人たちの身体から、

たくさん病気が見つかり始めています。

 

それは

 

時代の節目の今だからこそ

このタイミングで

地球を去ろうと

決めていた魂かもしれない。

 

自分を粗末にした結果で

起きたことかもしれない。

 

 

何にしても、

わたしたちはいつでも

有限の人生の時間を使っている。

 

「暇つぶし」なんて簡単に言うけれど

命を潰しているなんて

それは自分を粗末にしすぎです。

 

 

入院して、

自分の家で死ねないから可哀そうとか、

長生きできないから可哀そうとか、

旅行に行けないから可哀そうとか、

美味しいものを食べられないから可哀そうとか、

欲しいものを買えないから不幸だとか、

願いが叶わないから不幸だとか、

 

ダメ認定の項目が

多すぎる。

 

しんじゃダメって言うのも、

苦痛だよ。

 

こんな人生だからダメって、

誰が決めているの?

このままじゃダメですって、

誰が決めたの?

 

ダメなことはひとつもない。

 

 

きっと

ダメだと思ったから打ったんでしょう。

 

打っちゃダメ、打たなきゃダメ、

 

ダメ合戦は同じこと。

 

死を見たくないから、

ダメだと主張するの。

 

死は当たり前なんだよ。

 

 

わたしたちは

何度も何度も

肉体をもらって生きて、

脱いで、

生きている間にしかできないことを、

精一杯やっている。

 

 

親しい人だから、悲しいの?

家族だから、悲しいの?

 

見送れないのは

相手を掴んでいるから。

 

 

誰が先でも後でも、

 

明日はないと思って、

お互いに

精一杯

向き合うのよ。

 

どんなふうでも、

豊かにしあわせに生きられるよ。

決めるのは自分の心。

 

 

わたしは

 

病院で寝たきりになって

家族が誰も来なくて

毎日ひとりで過ごしている患者さんが

わたしのために

給食のデザートを大事にとっておいて

いつもありがとうって

一生懸命伝えてくれた人を

今でも覚えているの。

 

たくさん励まされて応援されて

感謝されて

笑顔をもらって

わたしは看護師として働いていた。

 

その方は

病院のベッドで一人で亡くなったけれど

家族でも血縁でもない

病院のみんなから

とても愛されて

最後の一息まで

愛のなか、

見守られて去っていった。

 

 

最後の一息まで、

生ききる。

それだけなの。

 

誰が先でも、後でも、同じなの。

 

 

看取ることが出来るなら、

そのお役目をいただけたということ。

しっかりしなくちゃね。

 

 

大事なひとが

去ってゆくことに

胸が痛まないわけではないけれど、

そこで立ち止まることはないのです。

 

これから

もっともっと、

卵の殻がむけるみたいに

変化が起こっていくでしょう。

 

桜の花が散っていくみたいに

たくさんの命が去っていくかもしれない。

 

立ち会うお役目があるなら、

そこにいるでしょう。

 

 

悲しむのではなく、

出来事に怒りを持つのではなく、

目の前の人に

愛しているよと

たくさんの方法で

伝えていきましょう。

 

 

それが

看取る、ということだから。