「二十歳の原点」高野悦子/新潮文庫


これほど完成された未完成があるだろうか。


未熟である自分の様態を、時に繊細に、時に大胆に、一寸のぶれなく言葉であらわす。

本来、自分が完璧だと思ったことほど、言語化はしやすいはずだ。だって“わかっている”ことの説明だから。

自分が未熟だと感じていることほど、言語化することは難しいだろう。わからない場合、たいがいは、何がわからないのかすら、わからない。

しかし高野悦子は、その難しいことを、やすやすとやってのけている。未熟であることを、こんなにも生々しく表現している。表現者として文章の抜群の切れ味に感服した。

一方、彼女が自殺したのは、必然の成り行きだろうとも思った。

失恋のせいでと解釈する向きもあるらしいが、私はそう思わない。

彼女が人間としての「完成」を目指していて(目指さなければならないと生い立ちから感じていて)この考えは、そもそも「生きる」ことと矛盾があるから、遅かれ早かれそうなったはずだ。

私たちは、「生きる」かぎりにおいて、永遠に完成しない。

エネルギーの法則をみれば、細胞のうごめきをみれば、不完全だからこそ、生命は存在できるのだ、ということがよくわかる。

不完全であるからこそ、極性の間で揺らぎながら、必死でその狭間におけるベターを選びとる必要が生じ、それゆえ常に「動」なのだ。

「完全」になったら、それはもうそれ以上変化の必要がないということ。

不完全であるのが自然なすがたで、そこを認めなければ生きられない。