電話が鳴った。

2011年12月10日、土曜の出来事、、、

明日は仕事は休み。
仕事から帰って、一息ついているときのことだった。


ボクは変えたばかりでまだ操作に慣れないスマートフォンを手に取る。


…電話は、実家、鳥取に住む父からだった。


ただならぬ予感を感じた。
ボクは慣れない手つきで電話に出る。


「もしもし、、、
 どうしたの?」


「ああ、eSか。
 寒くなったなぁ。
 鳥取は雪がちらついたよ。」


父は、普段と変わらない口調で答える。
確か、このようなやり取りをしたと思う。

ボクは普段と変わらない口調に少し安心した。


しかし、突然、父が事実を告げる。


「メイが今朝、動かなくなっていたよ。」


ボクはすぐに意味を理解した。


メイ、、、


それは実家で飼っている犬の名前。
10年以上前に家に来た。

この前、実家に返ったときは、ヨボヨボのお婆ちゃんになっていて、起きあがるのもシンドいような感じだった。


今朝、、、
寒い、、、
雪がちらついた、、、


…動かなくなった。


そうか。
逝ったか。


この寒さに耐えられなかったんだな、、、


…予感はしていた。


いつもは、しっぽを振って散歩を催促してきたメイ、、、
つい最近の10月に鳥取で過ごしたときは、ホントに起きあがるのがシンドいようで、でも散歩に連れて行こうとすると、無理して身体を起こすので、その様子が痛々しかった。

散歩中も、足取りはおぼつかなく、常にフラフラしていた。


ボクは散歩から連れ帰った後、隣りに座って、メイの頭を無言で撫でた。
この老犬は気持ちよさそうに地面に突っ伏していた。


今も、この手に、あの頭を撫でたときの温かさを思い出すことができる。


愛犬の死を聞いた日、ボクは何もする気力がなかった。
いろいろしなければならないことが山のようにあったのだけれど、ボクは寝た。


「たかが犬で、、、」


そういう叱咤をもらうかもしれないけれど、ボクにとっては長い間一緒に過ごした家族だ。
別に精神的に未熟と思われても構わない。


メイと一緒に過ごした日々を思い出す。
コイツが来たのは、ボクが中学生か高校生の頃だった。

ある日、学校から帰ると、父が保健所からもらってきていた。
確か、5月に来たから「メイ」と名付けたような気がする。


小さな子犬で、ボクはそれまで、ここまで小さな子犬を見たことがなかった。
その姿は、とても弱々しく、生きていくには何かの助けが必要に思えた。

このようなか弱い命が、いつかは逞しく生き抜くほどに成長するだろうということに神秘を感じた記憶がある。


子供だったボクは、メイにいろいろな悪戯をした。
噛みつかれたりもした。
辛いことがあったときは、側にいてもらった。
河原や公園で一緒に遊んだ。

学生時代、コンビニでバイトしていたときは、大量の廃棄品を、オーナーの目を盗んで家に持ち帰り、メイにあげたこともあった。
一度に多くの食べ物をあげたせいで急激に太った、、、

ゲームセンターのUFOキャッチャーでゲットした、大型のスヌーピーの縫いぐるみで悪戯したこともあった、、、
メイの犬小屋に、スヌーピーの縫いぐるみを入れて、「今日からここは、このスヌーピーの家だ!へへへ!」と。


いろんな思い出が蘇る。



…逝ったか。



今は落ち込むとかそういったことはないのだけれど、年末に実家に帰ったとき、空っぽの犬小屋に、また、いろいろと思うことがあるんだろうなぁ。


でもね、いろいろ解らないんだ。
晩年のメイは、本当に生きていることが苦しいような感じだった。



…楽になったのかな。



ボクはキミがいなくなって、一時的に苦しかったけどね^^


でも今は大丈夫^^
ボクはボクのやるべきことをやるよ。


肉体が滅べば、その副産物である魂が消滅することは理屈的に解る。
でも、ボクの心の中には、キミの思い出が残像(ゴースト)としているからね。


何とかやってみるよ。
そして時々、キミのことを思い出そうと思うんだ。





今回、しんみりした記事になって申し訳ありません。
でも、ちょっとケジメとして書いておかないといけないと思いました。


ボクはといえば、ここ最近は疲労で死にそうだったけど、何とかやっています。
疲労が溜まりすぎていて、今日は久々に12時間ほど寝てしまいました。

仕事から帰って、8時に仮眠取ろうとしたら、そのままぐっすり朝の8時まで寝ていました^^
怠け者ですね^^


まぁ、頑張ります^^


寒くなって、雪とか降った地域もあるようですけれど、お互い、身体を壊さないようにやっていきましょう。




メイの死があって、改めて、「生きる」とは刹那的であって取り返しのつかないものであることを教えてもらいました。



死後の世界なんかない。
あったとしても、不確定なものを当てにして生きていくのは違う気がする。



今を、後悔のないように生きましょう。


『望めよ、さらば与えられん。』


ボクの座右の銘です。


確かに、望んでも手に入らないことは多々あります。
でも、望まなければ絶対に手に入りません。


諦める前に望みましょう。
そして、そのためのアクションを取りましょう。
望むだけでは何も進展しませんから。


どうすればいいのか解らないのであれば、回りに相談してみましょう。


いろいろやってみて解ったのですが、人は一人では何もできません。
それは、スティーブ・ジョブズや孫正義であっても例外ではありません。
彼らも多くの人の力を借りて、大きなことをやっています。


人は人と助けあって生きている。
「依存して」ではなく、「助け合って」です。


「依存して」にならないように、助けてもらったら、何かの形で、今度はその人が困っているときに助けてあげましょう。


もちろん、相談してくれればボクも力になります。



…とはいえ、諦めることも、ときには必要かもしれません。



けれど、アクションを起こす前に、ましてや望む前に「どうせ」と諦めるのはもったいない。
ボクはどんな人にも可能性はあると思っています。

小さなことからやってみたらいいと思います。

ボクも例えば、プログラムを組むとき、大きな構想を描いて、その根幹となる部分が本当に実現可能かどうかを確認してからやっています。

それは、文字がちゃんと出力されるかどうか、とかいったとても簡単なことです。
それが確認できると、本当にこの大きな構想、実現できるのではないか、といった気分になってきます。


…やるだけやってダメであるのなら、それはそれで諦めがつく。
少なくとも後悔はしません。



「生きている」とは刹那的であり、一過性のものであり、そして一度しかない。



『後悔のないように生きよう。』



ボクはそう思います。