“婚活”なんて言葉がなかった時代、私が国際結婚をした経緯 パート1 | オーラから教えてもらえること

オーラから教えてもらえること

ハイヤーセルフ・愛の意識に繋がりベストな人生にシフトすることをサポート。スピリチュアルカウンセラー、オーラリーディング、ヒーリング、ミディアムシップなどの対面/遠隔セッション。ロサンゼルス在住、日本出張セッション

CLC(コンシャスライフコーチング) を取られた方々の中で、独身だった方たちには何度か話したことがある私の個人的なお話です。

 

“結婚”というと、私は今施設に入っている父の言葉を思い出します。

 

「結婚相手は自分で見つけるもの!好きになった人と結婚すればいい!!結婚は恋愛の延長上にあるもの」

と、小さいころから、父は

「お父さんはなー、お母さんに一目ぼれしたんだよ、、、、、、」と、自分がどうやって母を射止めたかを子供たちに話したり、

とにかく、小さいころから覚えている言葉が

 

「結婚相手は自分でみつけろ!」 でした。

 

スポンジのような子供の潜在意識に刷り込まれていったのです。

 

今思い返すと、彼を見つける、そして最終的には結婚相手を見つけることは、人を頼りにできないから、見る目を持たなければ!

結婚相手は、自分で “ハンター” のように、見極め、射止めなければいけないメラメラ

と、無意識にはインストールされていたようです笑い泣き

 

主人との出会いから結婚までは以前ブログに書いたことがありますが、今回は、詳細を書いていこうと思います。

 

最近、CLCを取り始めた方もハイヤーセルフと繋がりたいだけでなく「彼氏が欲しい」という方々もいらっしゃるので。
 

主人との運命的な出会いは、もうすでに会う何年も前から計画されていたことだと今ならよーくわかります。

 

20歳の私に戻りましょう。日本で短大を卒業し、ある程度大きな企業に入りました。

品質管理課の事務職で、いわゆるOLです。

 

その会社を選んだ理由も、ある程度お給料がよくて、休みもちゃんとあって、親会社が外資系なので古い体制の会社ではないところが魅力的でした。

 

正直、お金を稼いで、恋愛も含め、思う存分好きなことをしたかったのです音譜

 

まぁ、基本真面目なのできちんと仕事はしましたが、大きな会社だったので、社長とは口をきくこともなく、
大人たちの派閥も当時の私にはきちんと理解はできていなかったと思います。

 

その会社を3年で辞めた理由は、もっとスピリチュアルな本を沢山読んだり、時間が欲しい!好きなことをしたい!
ただそれだけでした。

 

その会社での社内恋愛とかは考えられず、他に出会った人とお付き合いをしていました。

 

今でも覚えています。

 

「私、インテリアコーディネーターになりたい(←本気ではない)ので、辞めます」と同じ部署の人たちにいったら

 

「そんな目的でここを辞めたら後悔するよ。結婚相手、ここでみつければいいじゃない」と部署の人たち。

 

「(んーーーーそれはイチバーーーーン望んでませーーーん!
それだけは絶対にイーーーヤーーでーーーーすーー)」と心で思いながらも
 

「そうですね、でもやっぱりやりたいことがあるので!」と辞めたい一心で嘘をつきました笑い泣き笑い泣き

 

会社の人に反対されても、親に反対されても、私は自分が決めたら実行する人だったので、
どんなに母親に文句を言われても、

 

「家にお金は入れるから」

 

と、決して聞き入れることはありませんでしたてへぺろ

 

 

中学、高校生の時は、まだまだ子供で、恋愛ごっこ。

まぁ、誰でも始まりはそんなものでしょう。恋愛はある程度慣れが必要ですねてへぺろ

 

話を戻して、それから母親に文句を言われながらも、失業保険をもらいながら、半年くらい好きなことをすると、またOLに戻りました。

 

今度は半導体関係の小さな企業でしたが、アメリカやヨーロッパ、イスラエルなどから装置を

輸入し、販売する会社だったので、英語を使うようになりました。

 

学生時代、英語は大好きで得意だったものの昭和の古い教育。

英会話の実践がほとんどなかったのです。

 

展示会で仕事関係の人たちが外国から来る度に、「もっと自分の想いを伝えて話したい!」と

マンツーマンの英会話をアメリカ人やイギリス人から学ぶようになりました。

 

営業事務の私は昼間はバシャールなどスピ関係の本を読み、生活の中で実践していく

ポジティブに生き、結婚相手を探している、ジム通いも忘れない、酒好きな女でした笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

仕事、英会話、スピ実践、ジム通い、週末のデート、、、

 

こんなライフスタイルが続いた後、26歳くらいの時に当時、未来のダンナさまに会いました。

 

アメリカから初の日本出張でした。彼は当時25歳。

 

彼の言っている英語は半分しか分からなかかったものの、私から東京案内に誘いました。

優しそうで、見掛けがタイプだったからです!てへぺろてへぺろ

 

しかも、バリバリ理系のエンジニアなのに、

その時、彼はスピリチュアルな本をに興味を持ち始めていたのです!

 

性格がいい、外見も好み、スピな話もできる、仕事もできる = 結婚

とはすぐにはなりませんでした笑い泣き

 

その理由の一つは、私は焦っていなかったのです!

 

結婚相手候補の一人になるかもしれない(上から目線ではなかったですが、ハンターだったので、最終的に射止める人は吟味しなければと潜在意識で思っていたと思います笑い泣き笑い泣き笑い泣き) という目では見ていたし、


この人と結婚したらどうなるだろう

 

と想像することはあっても、とにかく、付き合うなら今を思いっきり楽しみたいが強かったと思いますラブラブ

 

 

当時の私は彼と付き合いながらも、どうしてもイギリスに住んでみたい

という夢を諦められませんでした。単純に若い時からイギリスの音楽が好きだった影響ですキラキラ

 

そして、イギリスに2か月の語学留学を決意します。(←また決めたら決行!)

 

彼は 「英語を勉強したいならアメリカにおいでよ」と何度もいってくれましたが、

 

私のハートドキドキは どうしてもイギリスに少しでも住んでみたい音譜 だったのです。

 

そしてイギリスへ

 

イギリスに行った選択は正解でしたクローバー

 

ハンターだった私(今の人はこんな私を肉食というのでしょうか?ハンターの方がしっくりくる笑い泣き)、
私の方が彼に “好き好き攻撃” だったのが、イギリスに行ってから逆転

 

メールがなかった1995年、ホームステイ先から電話をかけずらかったので、彼には電話をかけずにいました。
すると、彼が毎日のように電話してくれるようになったのですキラキラ

 

その前は私の方からガンガンアメリカに国際電話をしていましたが、急に私からの電話がなくなり、

“Yokoはどこに行ってしまったんだ???”と焦ったようです。

わたしの作戦じゃありませんよウインク 

 

私はこれでも、結婚相手は慎重に選ぶタイプでした。

イギリスでも素敵な出会いはありましたラブラブラブラブラブラブ

が、その彼は “遠距離はムリ” な人だったのでそこでおしまいショボーン

 

ハートに従ってもう一つラッキーなことがありました。

 

ホームステイ先のママの息子が高校生のころ好きだったバンドのギターリストだったのです!

 

そのバンドはThe Clash

 

 

↑のバンドは高校時代に大好きで、手で顔を覆っているがMick Jones で

この人が後にBig Audio Dynamite というバンドを結成するのですが、
そこで1990-1995 までベースを務めた Gary Stonadge↓一番右端

 

Gary はホームステイ先には住んでいませんでしたが、たまにホームステイ先に遊びに来たり、
ロンドンでのコンサートに行き、バックステージでバンドメンバーと話すことができたのです!

Mickはやさしいおじさんでした 笑い泣き

 

パート2に続く