こんにちは✨



子供と休日に、市の図書館へ良く行きます。


そこでとても興味を引かれた本がありました。



日本の伝統もようです。


~以下引用~
 「もよう」は昔から人々の生活とともにありました。
 略
人びとは、身のまわりにある自然や風物を、図形にしたり、シンボルにしたり、いくつかのモチーフを組み合わせたりして、平面をもようで飾るようになりました。
私たちの祖先が生み出し、何百年ものあいだ、代々受け継ぎながら使い続けてきたもようが「伝統もよう」です。

 もようは、それが使われた国や、人びとを取り巻く文化によって特色があります。
日本の場合は、大昔に使われた土器にすでにもようがあらわされています。
縄文時代とは、土器に縄を押しつけてもようをつけたことから名づけられました。
弥生時代以降は中国大陸との交流がさかんになり、西アジアのような遠いところからもようが伝わりました。
それらのもようが日本で使われるうちに、和のもようとして定着したものもあります。
 略
(「和の文化をうけつぐ日本の伝統もよう」より)



例えば、このようなページになっています。






その中で、月と星のもようもありました。




妙見様の所で同じもようがありました。

千葉神社(千葉県千葉市)


人見神社(千葉県君津市)



以下、人見神社のホームページより

『人見神社は小糸川の河口、東京湾をのぞむ獅子山(人見山)の頂に鎮まり、古来より二総六妙見(上総の人見神社・久留里神社・横田神社、下総の千葉神社・印西妙見宮・飯高妙見宮)の一社として人々の篤い崇敬を受けてきました。

 略


また、天慶三年(940)、平忠常が上総介として赴任した折に、武蔵国より北辰妙見の神霊を上総・下総各地に勧請しその中の代表的な一社が当神社です。忠常の祖父、平良文(千葉氏の祖)は高望王の子で、東国へ下って妙見菩薩を祀るなど、代々、妙見信仰の念が篤かったのです。

源頼朝も治承四年(1180)、相模石橋山の合戦に敗れ、再起を期して内房の礒根伝いを舟で進軍の折、小糸川河口に着岸し、当社に武運長久の祈願文を捧げたと伝えられています。』


千葉県は、
「上総、下総」と二総に
分けられてきました。

千葉県には上総、下総それぞれ三社
二総六妙見』
あります。


そして、
ここでも源氏が出てきます。



さてさて、
この、月と星のもよう
七曜に想像上の星をふたつ加えた
「九曜」のもよう。






このもように似たものを
レムリアの「虹の神殿」
でも見ました。



私は
レムリアの大地の神殿、虹の神殿、水の神殿の神官をしていた過去生があります。


このもようは私の記憶の中にありました。


ただ、九曜ではなく
丸の周りに
13個位がぐるっとあるものでした。


月、星
何なんでしょう
繋がりがありそうで面白いです。



春ですね~


そんな今日のお話しでしたニコニコ

それでは
ではでは~✨