仏教と蓮の華は深い関係がありますね。
仏教でよく蓮の花が出てくるのは、阿弥陀経に極楽には蓮の花が咲いていると説かれるからです。
なぜ蓮の花なのかと言うと、蓮の花の五つの特徴(蓮華の五徳)が
正しい信心の特徴に合っているからなのだそうです。
生きているときに正しい信心を得た人は、
極楽の蓮の台に忽然と生まれると説かれています。
その五つの特徴の中で、
わたしは特に、淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)が大事だと思っています。
淤泥とは、淤も泥も泥田ということで、蓮の花は高原陸地に咲くのではなく、
どろどろの泥田に咲きます。しかし泥の中に咲いても、
蓮の花は泥に染まらぬきれいな花を咲かせます。
それをこういう言葉でも表します。
「泥中の蓮」と。これは”汚れた環境でも染まらず清く生きること”
“いくら汚れた環境に身を置いていても、その汚さに染まらず、清く生きること”です。

つまり、蓮のように「煩悩の汚れの中でも決して染まらず、
清らかで純真な心や姿を保っている人」をたとえる言葉です。
この泥水の中から立ち上がってくるハスの姿。
これを、我々の人生でたとえると、泥水は苦境や困難を現し、
花の中の実が「悟り」であると仏教では考えられています。
悲しいことや辛いことがなければ、人間は悟ることができないと言い伝えられ、
ハスが泥水の中から立ち上がって、気高く清らかな花を咲かす姿にちなんでいるのですね。
仏教では、ハスは神聖な花とされています。
これには、生まれたばかりのお釈迦様が歩きだし、
その足跡からハスの花が咲いたという話や、そのハスの上にお釈迦様が立ち、
第一声として「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたことから


【神聖】という言葉が生まれたといわれています。
またエジプトでも神聖な花とされてきており、
ツタンカーメン王などの墓の出土品である装飾モチーフなどにも
ハスが用いられているのだと聴いたことがあります。
  そんな意識を持って蓮の華を見つめ、日々生きていこうと思っています。
 
 



 以前、わたしの氣功会、瞑想会を京都で行ったときの後の感想で
ある方からこんなことは事を言われました。
「前に先生の自宅サロンでの氣功会、瞑想会の時は虹の光が
みんなにかかっていたのが観れたんでけれど、
今日はまた違って、窓の外から鳳凰が飛び込んできて、
わたし達の周りをくるくる回っているんですよ。今も天井のところにいますよ。」と。

わたしはとても感動しました。
わたしには見えないし、感じもしないのだけれど、そういうことを感じ、
観ることができて、みんなに伝えてくださる方がいることが幸せですね。

 鳳凰(ほうおう)とは中国の神話に由来する伝説の鳥です。
36種の羽を持つ動物の長で、聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされているようです。
全体はクジャクに似ていて、、黒、白、赤、青、黄の五色からなり、
高さは六尺ほどとされています。
めったに実を結ばないという竹の実を食し、梧桐(あおぎり)の木にのみ止まると言われ、
西洋では、東洋の不死鳥ともみなされているようですね。


また、鳳凰の卵は不老長寿の妙薬とされ、仙人達が住む山に棲息しているといった伝承もあります。
この辺りが、「不老不死」「生き返る」「若返る」といった鳳凰のイメージのルーツなのかもしれません。
「平和で誰もが幸せになれる世界が到来する」際に現れる鳥とされており、
色が華美で優雅な姿のために、吉祥紋様として好まれており、
着物の柄として折り込まれたのでしょうね。

 この平和な世にのみ姿を現すというところが凄いし、
この瞑想会で参加者の心が魂が、平穏になったからこそ姿を現してくれたのでしょうね。
そして、わたし達を支え、常に見守ってくれているのでしょう。
ただただ感謝です。
 



 皆さんは【アチマリカム】という言葉をご存知ですか?
これも1つの情報としてとらえ、活用していただけたら良いと思います。
毎朝晩、31回ずつ捉えていくとよいようですよ。
「どうぞよろしく御統治ください」と意味らしいです。

アチマリカムとは、日本の古神道に由来する言霊(ことだま)で、
特定の願いや祈りを込めて唱えられる言葉です。 
アチマリカムは漢字で「阿智麻利加夢」と表記され、
その音の響きや言葉の持つエネルギーに深い意味があります。
 直訳されるものではなく、その響きや音に込められた神秘的な力が重視されているのですね。

  「奇跡が起こる呪文」が、ついに一般公開へ

 https://youtu.be/i-J62H8L7TI?si=GyQN_VmlQhjnACJ0

初詣

 初詣とは、年が明けてから初めて神社やお寺に参拝し、

旧年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする行事です。

一般的には正月三が日に行われますが、1月中であれば初詣と考えることもできるようですね。

初詣の意味と由来は、
初詣は「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」を指します。

そのルーツは、大晦日の夕方から元日の朝にかけて氏神様のいる神社にこもり、

新年の豊作や安全を祈る「年籠り(としごもり)」という風習にあるとされています。

 年末には、本来今年の1年のお礼参りをすることが大切ですし、
一番尊いおまいりは、

その神社にまつられている神様の幸せをお祈りすることだと言われています。

神様の幸せってみんなの幸せなのですから。



はやいもので令和7年も今日のみとなりました。月日のたつのがとてもはやく感じられました。
来年は午年になりますね。この干支というのは面白いです。

この干支の由来は、
昔々、ある暮れのこと。神様が動物たちに御触れを出しました。
「元日の朝、わたしのところへ出掛けてきなさい。

最初に到着したものから12番目のものまでを、1年交代でその年の大将にしてあげよう」と。
動物たちは、我こそが1番になるぞとはりきっておりました。

ところが、ネコは話を聞き漏らしてしまい、ネズミにたずねます。

するとネズミはわざと1日遅れの日付を教えてやり、ネコはそれを真に受けて帰っていきました。

元日となり、足の遅いウシが誰よりも早く夜明け前に出発しました。

すると、牛小屋の天井でこれを見ていたネズミが、こっそりウシの背中に飛び乗りました。

そんなこととは知らないウシが神様の家に行ってみると、

まだ誰も来ておらず門も閉まったまま。我こそが1番だとウシは喜び、門が開くのを待っていました。

  ウシにちょこんと乗っかって……1番ゲット!やがて朝がきて門が開いたとたん、

ウシの背中からネズミが飛び降り、ネズミが1番となってしまいました。

残念ながらウシは2番となり、それからトラ、ウサギ、タツ、ヘビ、

ウマ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、イノシシの順で到着しました。

1日遅れで出掛けたネコは番外となり、

それ以来ネズミを恨んで追いまわすようになったと言われています。
こうして最初がネズミとなり、動物を当てはめた十二支が広く浸透していったのですね。


  鳥は、仲の悪かった、猿と犬の間に入りケンカの仲裁をした。

そのため 猿・鳥・犬の順番になったそうです。
猪 は、かなり早く着いていたが、お釈迦様の家の前で止まる事ができず 結局12番目になってしまった。
13番目に、かえる が着いたのですが、

12番目までに入れ無かったことを知り 「かえる」といって帰っていったというのです。
 



 音は空気の振動によって生まれ、1秒間に空気が振動する回数を表したものを周波数といいます。
周波数の単位をHz(ヘルツ)といい、数値が大きくなると高い音、小さくなると低い音を表します。
その中でもソルフェジオ周波数と呼ばれる特定の周波数は
心と身体に良い効果を働きかけると話題になっています。
その中でも528Hzという周波数は「奇跡の周波数」や「愛の周波数」
とも呼ばれ、リラックス効果が得られると注目されています。

音楽療法として528Hzに聴き入ると、
自律神経の中でも心身を安らぎモードに導く副交感神経に作用するので様々な効果を得られます。

 その一方で、528Hzの周波数には無限の可能性が秘められていると言われていたり、

DNA修復効果や幸運を呼び込む効果があると記載しているWEBサイトも多くあり、

なんだか不思議な周波数でもありました。

528Hzの効果を証明するために臨床実験を行ったのは、
自律神経のエキスパートである順天堂大学医学部の小林弘幸教授。

その楽曲にはもちろん永魂(ACOON HIBINO)の528Hzが採用されました。
 永魂(ACOON HIBINO)の528Hzは大幅なストレス軽減効果、
不安や緊張など全ての気分障害の緩和、幸せホルモン(オキシトシン)が増加することが分かり、

小林弘幸教授率いるチームにより効果があるものだと証明されました。
このデータは医学的論文として世界にも発表され、確かなモノとなりました。
永魂(ACOON HIBINO)の528Hzが本当に効果があると証明された訳です。
 これは音だけでなく、その周波数の画像も存在します。
わたしの瞑想室にはそのような画像も忍ばせています。

 こんな情報もありました

  https://x.com/kyo3wtachibana/status/1836457185917993026?s=53



「氣は長く 心は丸く…」の言葉に続くことを、かつて小学生の頃、

父親から教えられていました。
今、改めて見つめ直してみると、その深さに感慨深いですね。
「気は長く 心はまるく 腹たてず 人は大きく 己は小さく」は、
大仙院の住職、尾関宗園氏の名言として広く知られております。
   また「気は長く 心は丸く 腹立てず 口慎めば 命長かれ」は、
滋賀県の竹生島の宝厳寺で見つけたものです。
     
 この二つの言葉、もう一度自分に立ち止まりを与えたらいいですね。
和多志(わたし)自身確実に、自分で自分と周りのエネルギーを乱していたのだと反省しました。

愚痴をこぼすまえに、自分に矢印をむける。
人を批判する前に、自分ができることは何かを考える。
完璧な人はいない。だから愚痴ってしまうことだってあります。
でも、意識して、自分も周りもハッピーにできる選択はどんな人にもできる。
その選択をするのか、しないのか、それだけ。
人は自分の鏡だとよく言われますが、人を批判したくなるのも、
嫌悪感を感じるのも、どれも自分の中にそういう部分が少なからずあるからです。
それが自分でも嫌なものとして無意識にわかっているから、
人に反応してしまうのですよね。
目の前の人に腹が立ったら、自分の中にもその人の一部があるのだと思い、
それを手放しなさいと教えてくれると思えば腹も立てることもなく、
感謝の気持ちを持つようになると思うのです。


昔の癖はまだまだ抜けきれないで、残っているものですね。
改めて再確認でした。


 今回は形霊(かたたま)についてお話ししていきます。
霊(たま)とは、昔から日本に伝わるエネルギーを表す言葉です。
エネルギーを意味する言葉は他にもいくつかあり、
例えば、元氣の「氣」もエネルギーの一種です。しかし「霊」と「氣」
ではエネルギーの種類が異なり、「霊」の方がより本質的で、
そのものの土台となる濃度の高いエネルギーを指しています。
先人たちは、形から発せられているエネルギーを感じ取ることができていました。
どの形からどのような影響を受けるのか、敏感に察知していたのです。
それは、目には見えないエネルギーを意識して生活していかないと、命を守れなかったから。
昔は、現代のように医療体制も整っていなければ、食料供給にも波がありました。
生命を維持するためには、五感を活用しエネルギーを感じとる必要があったのですね。

逆に言えば、今よりも五感の感覚、意識が高かったと言えますね。
しかし現代を生きるわたしたちは、そういったエネルギーに対して無関心になってしまっています。
形にはエネルギーが宿る
たとえば「なんとなく居心地が良い空間・悪い空間」を
感じたことはありませんか?専門的には「家相が良い・悪い」と言うのですが、
これは間取りという形、家具という形、つまり形霊が大きく関わっています。
・金運を上げる空間
・健康に良い空間
・運気アップを阻害する空間
それらの空間は「形」によって左右されるのです。

歴史的な大きな形霊で言うと、
エジプトのピラミッドが三角形であることにもエネルギーが関係しているのです。
つまり、形はエネルギーを発していて、
その空間にいる者、それを使う者に影響を与えているのです。



 

 


ある一定の時期から、日本列島は龍のような細長い形になりました。
伊能忠敬先生が日本地図を完成させた江戸時代、地図は国の重要機密でした。
それが、何十年という時を経て一般庶民も知ることができるようになってようです。
地図を知る以前から、人々は肌感覚として
・心地いい土地
・安心できる国
・馴染みやすい場所
という感覚を持っていました。それがある時、日本地図と龍の形の共通点に気付き
「日本は龍の国なのではないか?」
「だから龍神伝説が多いのではないか?」
「寺院に龍の絵があるのはこういうことなんだ」
「龍神から後押しを受けている土地なんだ」
という関連性を見出していったのです。

わたし自身も龍に守られていると感じています。
だから『和龍』をはじめ、そういう書や絵が自然と手に入ったり、
引き込まれていったりしています。


 修行と修業は、読めば同じ「しゅぎょう」ですが、
一体どう違うのでしょうか?
『修業』というのは、苦しい事や、やりたくないことをひたすらしていくことで、
目標達成のためにするのです。これには卒業があります。

一方で、『修行』は、日々の行いの中にあって、その日に出来る事をしていく。
だから終わりがないのです。
常に登り続ける事で、日々これをしていかなければならない。
よく人生は修行の連続と言われますが、
自分の目の前に起こっていることをただひたすらすればいいのです。
本当の修行は、滝に打たれることではなくて、
日々自分の眼前に起こってくる課題や問題に四つに組んで乗り越えていくことであると考えます。
 あなたに、それが出来る力があるからこそ、状況や仕事が眼の前にやってくるものです。
必ず出来るし、乗り越えられます。
しかし、いろいろな条件を出したり、理由をつけて、
それを断った場合、一瞬は回避することは出来ますが、
また同じ事や状況が眼の前に現れてくるものです。
つまり、その人がクリアーしなければならない課題であり、避けることは出来ないのです。
日々の修行が大切だということです。


 最近よく話題になっている虐待の事案もまた、親が人間として成長していくための修行のように思います。