5月に入ると体が疼く、と書きたいところだが、いまや体は疼かなくなって心が少しだけ疼くのである。山菜取りという山歩きがしたいのである。無性に好きな山菜もあるのだが、山歩きそのものも大好きなのである。
3・11で東京電力が日本列島に放射能をばら撒いて以来、山菜取りも茸狩り(という名の山歩き)を断念した(じつは、原発事故直後の5月、いつもの年のように山菜取りに行ったあとで、放射能汚染に気づくという大ポカを一度だけやったことがある)。
とんでもない実害である。いま、自公政権はすべての原発事故被害を「風評被害」だと喧伝し、原発事故の実害はなかったというフェイクで国民を洗脳しようとしている。こんな単純な嘘で騙そうとする精神にも驚く(まあ、意識的な政治的詐術だろうけど)が、それに唯々諾々と騙されそうになっている無数の精神が存在しているらしいことにも驚いている。
私は詩や短歌が好きで詩集や歌集もよく読む。3・11後は、原爆や原発に関して詠まれた作品がことさら目について、ブログやフェイスブックなどのSNSにもそれを引用することがある。ただ、残念ながら詩や短歌を引用して書いた文章を投稿したときの読者の反応はいつもよりずっと薄いような気がする。
それも当然なのだろうと思う。そもそも今や私には詩や短歌のことを話題にできる友人、知人は周囲には一人もいない。ごくごく若かったころ、詩の同人に加わったこともあったが、詩を書くことを断念してからはずっとそんな状態である。今は遠く離れて暮らす何人かの友人との手紙のやりとりのなかでたまに詩や短歌に触れるだけである。
SNSでの反応が薄くても、詩や短歌を引用するのはやめられないのである。とくに論理と心情がうまくかみ合った作品を見つけたときには、私の考えや心情をうだうだと書くより引用して方がよほどいい文章になるように思えるのだ。
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