(8月のお盆、カミさんと息子と3人で、網走のトーフツ湖そばの 浜小清水道の駅まで行った。

原生花園のなかの遊歩道が涼しく、暑いなかの吹きわたる風が快適だった。)


(川湯へ行くと、ほぼ必ず ビジターセンター2階のカフェに行く。白樺林が いつまで眺めていても飽きず、時をわすれるのである。いつ行っても人がいないか、いても数人程度である。経営が大丈夫か と余計な心配をしてしまうが、国営だからいいんだろうなあ、きっと。)



街を華やかにして 歩く娘らよ
君よ恋をしているか 愛を知っているか
若い時はいつか 過ぎていくものだ
熱くさわぐ命を むだにするな
傷ついても いいじやないか
何もしないよりは
自分の青春を しっかり残すため

娘らよ 娘らよ 恋をしろ
咲いた花さえいつか あせてゆくものだ
時は いつもボクらを待ってくれない
君よ 胸のときめき 気づくことないか
もえる君の血潮を 忘れてないか
たとえそれが 苦しい意味でも
若い日の夢だ 自分の青春の
生きている思い出に

「惜春の歌」
歌 森田公一・作詞 山上路夫・作曲 森田公一
発売 1976年3月

何度か このブログに書いているが、自分はお風呂に入って、いつもいろんな歌を 覚えて歌っている。
歳をとると誤嚥性肺炎にかかりやすく その防止策として喉頭蓋を鍛えるためである。
で 最近 覚えようとしているのが、上記 「惜春の歌」である。

今どきの 若者向けの歌ではない。
若い娘さん、恋をしよう、
でないと 青春は早く終わってしまうよ、
などという 余計なお世話 そのものの歌なのだが、この歌の歌詞を 一部読み替えて歌っている。

娘らよ、娘らよ、というところを、老人よ、老人よ、と 意味を変えて歌って居るのである。

確かに 時は老人を待ってくれないし、咲いた花はそうとう褪せている、といより 今にも枯れそうである。
ただ 恋をしろ、と言われたところで、そんなみっともないことは出来もしないし、怖いカミさんもいる。
そこは身の程を知っている。

ただ、燃える血潮を、若い日の夢を忘れてないか、と言われると、ぐっとくる。
そう言えば、燃える血潮のときもあったんだよなあ。
あの頃は 何処へ行ってしまったんだろう。
若い日の夢って なんだったんだろう。

この歌が発売されたのは 48年前、昭和51年である。
ということは ウチのカミさんが20代前半の時(あえて秘す)自分が29歳でカミさんと付き合っていた頃であった。

あの頃、
男はつらいよ、という渥美清の映画のなかで、吉永小百合がマドンナになった。1972年、
もうほとんど覚えていないが、吉永小百合が 友人と旅をしていて寅さんと会い、寅さんが、その清純な美しさに、例によって恋心をいだくのである。

この頃は、日本経済の高度成長期のただ中にあり、日本中が明るい時代であった。
そして 若い女の子が幾人かで、国内のさまざまな観光地を旅行することが、ブームのような時代であった。
カミさんに聞くと、当時は 釧路の老舗デパート マルサン鶴屋の呉服売り場に勤めており、職場の同僚と 東北やら山陰やら 休みをとって いろんなところを旅していたらしい。
なにせ ホントか嘘か、若い娘っ子なのに 賞与が一回50万以上もらっていた、という。
よっぽど景気良かったんだなあ。

山口百恵の 「いい日旅立ち」1978年、や、中村八大・作曲、永六輔・作詞、「遠くへ行きたい」、1962年、がヒットしていた時代であった。

カミさんの話では、旅行はもっぱら汽車で、今と違い 四人席の対面だから、たまたまの相席の見知らぬオジサンに 食事を奢って貰ったりすることもよくあった、という。
いい時代であった。
いまならセクハラとか、なんちゃらとか騒がれかねない。

話は違うが、去年 奈良、京都を旅行した。
薬師寺の入り口に高校生の一団が並んでいた。
自分も入ろうとして、つい団体入り口の男子高校生に、
どちらから来たんですか?
と、聞いてしまった。
彼らは何も言わず、近くから教師らしい人がとんできた。

なんでしょうか!
いえ、ただ どちらから来たか、と、聞いただけですが。
大阪の方です!
と、睨みつけられ、
失礼しました、
と、自分は 慌ててその場をはなれたが、ちょっと声をかけたら 不審者扱いだった。

いやな時代である。
知らない人に うっかり口も聞けない。
(続く)