従5位下 | きつねの部屋ブログ版

従5位下

  『光る君へ』でまひろ(後の清少納言)の父藤原為時が任官されその時までの従六位の上から従五位の下に昇進した.。

 

 一般に平安時代の貴族といえば律令に定められた官位で官職が決まる。官位は一位から始まり六位までは官人ではあるものの大きな官庁の長(○○の守)ににはなれず良くて助(すけ・次官)か氶(じょう・三等官)主典(さかん四等官)程度である。

 

 紫式部が後世その名で呼ばれるのは為時が式部の氶の位についていた過去があったから。

 

 それでも部下はいるにはいるがそれほどの権限はなく、下級官人の仲間ということになる。そして貴族といわれるには四位以上でなくてはならず、これでようやく殿上人といわれ、政治に参加できるようになる。

 

 といっても仕事をするだけで自分の役所のみのしか関与できない。いわゆる高級官僚は三位以上で公卿とよばれ、政(まつりごと)の決定、指図は彼らから発せられる。

 

 話しは戻る。ちなみに四位と五位には上下と正と従とがあって、都合4段階に分かれている。それだけ○○の守になるという現場所長クラスは中堅官僚として必要とされていたことになる。

 

 世間で言われているように藤原道長と紫式部とは直接の接点があったかはわからないが、何らかの繋がりがあって、父親の栄転になったと考えられている。

 

 で、この時為時は国主(受領ともいう地方の長官、今でいう県知事)になったとしても官位の従六位下では相当の(この時代コメの取れ高によって大国、上国、中国、下国の四段階に分かれていた)下国である淡路の国を望んだという。

 

 が、多分の道長の配慮もあり、天皇の意向もあって元花山天皇の家庭教師であった学者である為時は淡路から中国、上国を飛ばし、大国である越前に国替えになって赴任した。つまりは為時は望外な大出世ということになる。

 

 実はこの赴任の件には裏話があって、当初越前の国主には別の人物が既に決まっており、その人物が赴任する前に為時に急に変更になって、その人物は驚き病になり、そのまま亡くなってしまった。 

 

 受領は太政官に収める決められた税収(主に米)を収めればあとは私財にできる特典があって、受領層は誰でも豊かになりたいがために上国、大国を望む。がこの人はそれほど欲はなく途中で受領を辞任してしまっている。

 

 学者肌の人らしい振る舞いである。