宮城野親方 | きつねの部屋ブログ版

宮城野親方

 元横綱白鵬鵬(現宮城野親方)の株が駄々下がりだ。弟子の幕内力士北清鵬が部屋の若い衆に暴行を働きそれを知りながら親方として注意もせず放置した、ということで相撲協会から部屋の親方失格の烙印を押された。

 

 現役時代から白鵬は強いが優勝にこだわるあまり現役を去る前の相撲には横綱らしからぬ土俵での振る舞いが多く、ただ強く、優勝をすればいいといったファンには喜ばれただろうが、とても見苦しい相撲で心あるファン、また相撲協会幹部、横綱審議委員会から再三注意を受けてきた。

 

 わたしもこのブログに同様の事を何回か書いた覚えがある。

 

 たしか現役最後の優勝の時に、万歳三唱を客席に求め相撲協会の役員や他の親方たちからひんしゅくをかった。あんたの個人的なパフォーマンスの場か、大相撲は。

 

 しかし親方になればそれは改まるだろうとおもっていたのだが、このような仕儀になり、彼一人の問題というかモンゴル力士はみなそうなのかと彼らを見る目が変わってきている。

 

 強ければいい、というのが大相撲ではない。もちろん強いことは相撲取りが目指すことだが相撲は神事がルーツ。神に勝負をささげることから始まり、格闘技ではあるもののあくまでも勝負は土俵という俗世とは縁を切った神の見前で技を見せ合うことにある。

 

 ただ勝てばいいというものではない。確かにプロスポーツであるから勝てば勝つだけ番付も上がるし、収入も増える。

 

 しかし土俵上での振る舞いも力士そのものへの評価に繋がる。負けて不服そうな顔をしたり、勝って「どうだ」といった表情をみせることはご法度。

 

 人間である以上勝った、敗けたで感情が表にでることはあるだろうし、それはしかたないことだ。しかし大相撲は他の近代スポーツとは異なることを認識しておかなければならない。

 

 あくまでも神事がバックにあり、仕切りの所作や勝って奢らず、敗けてうらまずという精神で相撲に臨むことを求められる。

 

 白鵬が優勝にこだわるあまり立ち合いから横綱らしからぬ張り手を下位力士に飛ばすなどあってはならないと、何度も注意を受けても止めなかったのが、結局相撲は勝てばいい、とおもっていたからだろう。

 

 その精神が同じモンゴル出身の北清鵬が見習った、もしくはモンゴルではそうしたことが「勝ち」であり、幕内力士が下位の者を指導の名のもとに暴行をくわえるのは只のイジメだと気付かなかったのか。

 

 勝ちさえすれば、強ければなんでもやっていい、それが宮城野親方の現役時代の精神であったということが、こうしたことに繋がったといっていい。

 

 敗けるにも意味があるし、それをきちんと受け止められる人が相撲取りであってほしい。

 

 親方失格とは弟子を育てることはできないと認定されたも同然。名前だけの親方では現役時代何十連勝しようが横綱の名を怪我したといわれても仕方ない。 

 

 暴行問題とモンゴル出身力士との関連性がいわれることは、もうたくさんだ。

 

 最後に爽やかな話し。新入幕で東17枚目の尊富士の初優勝は快挙であった。千秋楽前日足を痛め、果たして千秋楽に出るか出ないかで迷ったと本人はいっていたらしいが、出ると決心。

 

 見事大相撲史を110年振りに新入幕優勝と書き換えた。こうした爽やかな大津網こそが賞賛される、そういうものにこれからもなって欲しい。

 

 といって、これからが精進。一時の話題で終わらぬよう頑張ってほしいものだ。