平安京 | きつねの部屋ブログ版

平安京

 平安京、現在の京都市内にあたる場所にできた、ということは中学生以上なら学校でならうであろう。しかしそのとき使われる教科書では縦横奇麗な碁盤の目にような地図がかいてある。その歴史から誰でもが整然とした都市で京都は雅であるとおもったろう。

 

  しかしながら宮廷内ではそうであったろうが、京都の街全体のでは完全な碁盤の目のような街並みになったわけではない。京は元々中国の唐などを真似て作られたもであるが、中国の場合は街を外壁で囲みそれぞれの門には厳重な警備が引かれていた。

 

 また夜間は扉が閉められ外部からの侵入を防いでおり、京都はそうした街を護る外壁はつけずにいたため夜盗などが侵入してきて常に治安状態は悪かった。

 

 しかも朱雀大路で東西に分け双子のような都市といわれているが、あれは設計図であって右京(北から見て右側)は整備されずに中世を迎える。教科書の図はあくまでも設計図であり、実際に造られたのは左京と右京の北側の一部のみ。

 

 どうやら中国の賓客を招くために造ったのではないか、といういわばペパークラフトというと言い過ぎだが実態は人口も少なく賓客たちには朱雀大路を観てもらいそのスケール感は中国には敗けません、といった見栄があったと考えられる。

 

 ひとつには京都盆地の傾斜は北から南ではあるが、東西方向も東が高く西が低い地形になっておりひとたび雨がふると右京は水浸し、とても人が住めるような場所ではなかった。

 

 ここで右京と左京とは天皇のおわす大極殿(宮城)から視て右左であるのでそう呼称する。鴨川は左京部にはいり、桂川は右京郊外となる。ただ右京は農耕の地となって左京の住民に蔬菜などを提供し、それなりに意味ある土地であったようだ。

 

 とかく鴨川が氾濫すると京都中心部へ水があふれることになり、白河法皇が「鴨の水、賽の目、山法師」この三つは自分の意に染まらずと嘆くくらいよく鴨川は氾濫した。

 

 ということは更に低い南の京都市内に水があふれる、ということになり花の都ではあるが、なんとも住みにくい場所ではある。

 

 先に書いた夜盗の群れは今日の北西からやってきて、常に御所警備をする検非違使などと対立をしていた。とはいえ検非違使も人数が定められていてとても大人数で襲ってくる輩には対応ができず、高級公家たちは自らを護るために武士たちをボディーガードに雇い、その親玉が源氏であったり、平家であったりした。

 

 源氏も平家も元々は天皇家から発した者たち。天皇家で次期天皇になれるのは一人だけ。とすると皇子たちは降下といって普通の貴族になる、のだが代が下がれば当然数が多すぎて食べるために地方へ行き土地を開墾し、その主となる。

 

 在所でそれなりに財をなし京に上る源氏、平氏もいて平清盛、源頼家などは都の警備をすることにより生き残り、そして対立し、平家時代、次に鎌倉時代をつくることになる。

 

 であるので姓は平氏とか源氏とか名のっているのは元をたどれば代々の天皇家に繋がる。もとい、とにかくわたしたちが想像している古代の京都は教科書に描かれた図のように整然とはしていなく、土塀なども欠けている部分があり、治安の悪い街ではある。

 

 しかしながら全国から米は集まり金工細工や織物、菓子、など雛にはない王朝文化が育っていき、日本唯一の都市といえることは間違いはない。

 

 結局中世から戦国、そして江戸時代まで残ったのは左京だけで、それも上下に分裂して上京、下京といわれたごく狭い範囲だけ。きちんと京都盆地が整備されたのは明治以降のことだ。

 

 しかしながら政治の地ではあるので、歴史的みればやはり日本の首都であったことで、ここに旗をたてること、つまり天皇を手中にすれば天下の主になることができた。