「赤毛のアン」と「アンという名の少女」 | きつねの部屋ブログ版

「赤毛のアン」と「アンという名の少女」

 最近家の近くにできた奇麗な市立図書館で本を借りた。題名は「赤毛のアン」、そうモンゴメリーの大作で、書名は誰でも知っていて、特に思秋期の女の子たちには人気で一度は読んだことがあるのではないかという一人の少女の成長を描く、大ベストセラー。

 

 日本ではテレビアニメがヒットした。といっても男の子はあまり本の方は読まないので、だいたいの話しは知っているわたしもいままで原作を手にとったことはなかった。

 

 が先年NHKで放送された『アンという名の少女』(以下テレビ版・現在再放送中)の放送を観て原作との相違に興味をもち、図書館が近くにできたタイミングで本を借りた。それも日本で初めて原作を翻訳した村岡花子版。風俗なども服を「着物」、そして話言葉も「よくきなすった」と表現。現在なら「いらっしゃい」とするだろうな、と時代を感じさせる。

 

 わたしが借りたのはおそらく小学生高学年あたりから読めるようにわりと大きな活字を使い仮名が多く改訂された版。またマリラ兄妹となっている原作だが、テレビ版では姉と弟である。

 

 テレビ版のグリーンゲーブルズではマリラのほうがマシュウより主導権をもっているようなので、強い姉、おとなしい弟のほうがしっくりくる。

 

 それについては物語(テレビ版)上マリラとマシュウ姉弟にも兄がいることになっていたが、その兄が死に彼ら二人の青春時代をとりあげられ、マリラは好きなひとと別れ、マシュウも家を護るために学校をやめ、マシュウもまた好きな人とも一緒になれず家で働かざるを得ない境遇にした。  

 

 原作では途中でマシュウが銀行の破産でショックのあまり死に、マリラも目が悪くなりグリーンゲーブルズを手放す、という記載になっているが、ドラマ版はそうではなく、銀行の破綻で自殺してしまったマシュウも、ドラマ版では一度は自殺しようとしたが、マシュウは生き残りこの先もマシュウ、マリラはアンの成長を楽しみにして元気にくらしていくという筋。

 

 以上、詳細はテレビ版とは、プロットが違うとは想像はしていたもののここまで違うとは思わなかった。

 

 テレビ版の『アンという名の少女』は孤児院でいじめられたトラウマを持つ。が、持ち前の想像力でそうしたイジメにも耐え、貰われた家の主であるマリラから男の子ではないと一度突き放されそうになり絶望するも、アンの素直さにマリラも改心彼女を養女として迎える。

 

 ドラマ版ではイジメ、性自認、女性の自立、人種差別など現代的なテーマが盛り込まれ、小説のような穏やかな田舎でおこるささいな事件とは異なる過激さが目立つ。¥

 

 特に撮影に協力していたカナダ政府は、最終シリーズでインディアン(ネイティブアメリカン)の子供たちを強制的に寄宿させて白人の教育を受けさせた、という事実である恥部をドラマにされたことにカナダ政府が難色を示し反発。原作のようにギルバートとアンが結婚を約束するという終わり方にした。

 

 わたしはどちらが本物のアンかと云われれば、どちらもだろうとおもっている。ドラマ版は「赤毛のアン」を下敷きにした別作品であるとの評もあるが、原作者のモンゴメリーが生きてていたらとんでもない、と怒るかもしれないであろうかそれとも賞賛してくれるだろうか。わからぬがわたしはドラマ版を支持する。

 

 特に主役のアンを演じたエイミーメス・マクナリティがガリガリ、ソバカスだらけの顔、土色の赤毛など自分の容姿に悩むアンそのものように思え、ロマンたっぷりの原作とは異なるリアルアンを演じていてわたしは好感をもった。

 

 ついでに記載すると、いままで映像化された『赤毛のアン』よりも活き活きしているアン、そしてマリラやマシュウなどの主要登場人物たちも死んでいない、ということ。

 

 アンの未来はこうなのだ、と確信できたこと。そういった意味でこの映像はすばらしいと感じている。

 

 注 原作に登場する人物たちとエピソードは本作品でも登場する。しかし性格、行為は大分異なっていてまず孤児院でイジメにあっていたアンの記載は原作にはない。そのトラウマ故に想像力がたくましくなった、というのがアンの生い立ちの始め。

 

 キャラクターも善人ばかりでなく、悪意をもった人間もでてくるし、いやむしろ善であるにしろ、悪であるにしろキャラクターが立つような設定になっている。 

 

 こうした下地がないと『アンという名の少女』は成立しない。全て善人に囲まれる原作とは大いに違うので、原作を読んでいる方たちはとまどうことでしょう。