戦後初のジェット旅客機飛ばず | きつねの部屋ブログ版

戦後初のジェット旅客機飛ばず

 三菱重工が開発した、戦後初の国産フルジェット機「三菱スペースジェット(MSJ)」の開発を断念した。

 

 既に機体は完成し数年前から型式証明を取得するためにアメリカで試験飛行を行っていた。 


 しかしなかなかアメリカでの飛行で型式証明がとれなく、何度も飛行機構を改編して挑んでみたが、その内コロナ禍となり日本での駐機が長くなり手をつけられないで状況が悪化、これ以上資金を投入しても完成は難しいとの判断だったようだ。

 

 外的には燃料費の高騰や日本の景気減速による国内需要の低迷など様々な要因が重なったと思われる。

 

 しかし、根本的には日本の技術力が既に国産旅客機を造るだけの能力を有していない、ということだとわたしは考えている。地上ならともかく、半導体を駆使した飛行システムに対応する大型航空機を飛ばすためのノウハウの蓄積がなかった。

 

 いやそれ以前に民間航空機の作り方、そのものの進歩においつけなかったのでは。模型実験では成功しても操縦性、機体の微妙な動きなどは実機を実際に飛ばしてみなければわからないことが多い。

 

 細かな振動、操縦具合、そのレスポンス、機体と操縦士とのコラボ力などなど微妙な点の違いが既にある航空機とは異なるのであったのだろう。

 

 そこに実績のあるアメリカ製の航空機との差がでた。

 

 現在自衛隊にあるジェット戦闘機は全てアメリカ製。その修理は日本で行っているが、それだけでは大きな機体は飛ばせない。

 

 確かに戦後の十数年の空白を得て70年代に戦後YS11という国産プロットエンジン(プロペラの補助にジェトエンジンを組み合わせたもの)を開発し国内で飛ばし、なんとか短中距離飛行の採算化までいった成功体験もある。


 うち中古の何機かはアジアに売れたとか聞いている。当然MSJも、海外展開を目標にしていた。

 

 しかしその後はフルジェットエンジンを積んだ旅客機の開発は続けられず、開発するより外国の航空機の利用の方がコスト面が(旅客数なども含め)安いので、市場が要求しなかったという面もありジェット機国産化はされなかった。

 

 いやアメリカから航空機を購入せよと、ゴリ押しさせられたというのもある。そのうち世界の航空機産業から取り残された。

 

 これはわたしの考えだが、80年代に大量の金が日本に入ってきたことも国産ジェット機の開発機運を高めたのではないかと思う。

 

 しかし、着手して何度も何度も手直しし、アメリカの航空製造会社の持つ技術力には敵おいつかず、おいこせず、完成した飛行機をアメリカで飛ばし型式試験を受けるたびに不具合が発して飛行機構の改変をくりかえし、この先のことを考え開発を断念したのだろう。

 

 さぞや開発に携わった人達の落胆は大きいことであろう。しかしこれが今の日本の技術力だ、と示されたわけで世界、特にアメリカとは民間も軍事も含め下請けに徹するしかなく、絶対に敵わないと分かった。これまた日本凋落の印とすると、非常に寂しい。

 

 航空機は自動車のようにはいかなかった、ということになった。