℃ | きつねの部屋ブログ版

 小学生の頃に習った気温の単位。日本では度で表すが、記号であれば℃とする。ではこのCとはなんだ。

 

 おそらく小学生の頃に教わったか、遅くとも中学の時には理科などの先生に解説してもらったかであるのだろう、忘れてしまった。

 

 ただCの意味を知らずとも生活には特に苦労はない。

 

 人は社会を形成したときに共通の言葉を持ったが、おそらく数を数える単位はどうしても必要になったろうから、これは割と早めにつくられた。

 

 自給自足の生活をしていれば、特に現物さえもってくれば部落内などではそれで事は足りる。しかし、農業革命でモノを収穫したり、獲物の狩りをして農産物と交換するときには1対1でする。

 

 では肉の1と穀物の1とではどのようにして等価とするか、いちいち量や重さをその時限りでやりとりをする、ということは双方にとり不利益になることもある。

 

 距離や長さは人の手足、あるいは長距離では日を単位としとして使えばなんとかなったが、物の重さはなにかの基準が必要となる。

 

 そこで商人という双方の中間に入り肉の重量に対し、穀物の容量はこれ、という基準を作り、「計る」道具などを作ったろう。

 

 単位がそこに生まれる。最初は目分量だったが、正確に測るためにこれは想像だが、同じ大きさの石を天秤などでいくつか集め、それを錘とし天秤に品物と、石を乗せ同じ重さになったら商談成立、といったことがおこなわれたかもしれない。

 

 もちろん商人は自分の取り分はあらかじめ決めておく。肉なら部位にもよるが、石3個分は手間として商人が貰うとかである。穀物も同様だったろう。

 

 そして仮に来年の収穫のために麦の種を手に入れようと商人の元にいき、手に入れたとして商人はそのことを記録しておかなければならず、そうして生まれたのがメソポタミアでの楔形文字といわれている。

 

 これを商人ではなく王が自分の所領の中であらかじめ一戸当たり石4つとかして彼の税として徴収し記録し、そして富を得る。

 

 がこうして見えるものは単位が決まっていくが、見えないものである暑さ、寒さで着る物を調整する季節を可視化できると便利で、ではなにを基準にするか、ということで18世紀にスウェーデンの天文学者セシルスが℃という単位を作った。

 

 暑さ、寒さは穀物などの収穫や野生動物の動きにも影響するので、着物うんぬんよりも重要だったに違いない。

 

 水が氷る温度を0とし、沸騰する温度を100としたもの。こうした単位は人間でなければ考えつかないものだ。

 

 いまだって67.5℃以上はコロナに感染した疑いがある、なんてつかわれてますよね。

 

 これをセシルス度とし、彼の名の頭文字Cをとり℃とした。日本では摂氏となっていてちゃんとセシルスの名が入っている。

 

 つまりこの世にある単位は誰かが考えたものが標準となっていて、わたしたちの生活や物理学などの世界でつかわれている。

 

 そうとは知らずに使っていてもいなくても生活そのものが変わるわけではないが、人の営みや研究には何がしかの単位がなくては普遍性はもたず、話しが通じない、といったことを教えてくれた。

 

 のが、NHKで朝夕たった5分だけ放送される「0655」と「2355」である。この生活情報番組、侮れない。