愛国心
「愛国心」、普通生活をしているその国の住民にとって、この「愛国心」を問われるということはなく、これを問われるのは国が国民を団結させ「敵」に向かわせるためにわざわざ問う行為に他ならない。
かつての日本がそうであったように、戦争という国の大義のために国民がこの戦争を支持しているという協力やバックアップを得るためにもこの「愛国心」という問いを国民に投げかけることは必要な措置だった。
政府自らが行う事の免罪符を得たいがための行為、それが政府による「愛国心」の強制、強要だ。
責任は政府にある、のではなくこの戦いは国民の意思だ、と責任を転嫁するために「愛国心」を利用する。
特に大義無き戦争の場合は危機を演出し、更にこの「愛国心」を強調する。今のロシアがそうだ。他国から奪った土地でロシアに帰属するとしての住民投票というロシアへの「愛国心」を試す行為にでた。
結果によって(もちろんでたらめだが)、住民の意思がロシア人であるとするならば、その土地へ攻撃を仕掛ける場合、ロシア本国に攻撃をしかけるとみなす、とウクライナをけん制する。
姑息で卑怯な手段である。
他国へ侵入してその国の国民に「愛国心」を問うのは内側からの崩壊を防ぎたいためもある。
そこまでロシアの思惑通り戦況がおもうようにいっていないという証しなのだろう。
こうした「愛国心」を強調するには小国ならともかく大国で行われるのはいわば怖れの裏返しでもある。
大勢の国民の反乱を怖れているからに他ならない。そうした政府は国民を信用していない。国民を脅しながらの投票にどのような価値があるのか。
現在中国も「愛国心教育」を子供のころからおこなっている。特に香港ではいままでイギリスとの約束もあり自由にものが言えたのが、強制的に中国本土に行政府を握られ、「愛国者」でない者は罰を受ける、とまでエスカレートさせている。
権威主義的な独裁国にはよくある現象である。国にしたがっていれば悪いようにはしない、おとなしくしていればよい、ということなのだろう。
国民の意思を政府と同じ方向へ向ける、しかもハードパワーとソフトパワー―両方で脅す。かつての日本もそうだったが、それがどんな結果を産んだかは知る通りだ。
愛国は暮らしの中で自然発生するもの。普段は気がつきはしないが自由に行動できる、好きなものを買える、友人と付き合える、山河に魅了される。田んぼの景色が心をうつ、そんなことで自然に生まれるもの。
けっして強制されるものではない。
自由のない、しばりのある強制的な「愛国心」など愛国心とはいえない。