資本主義
民間のロケットが民間人を宇宙に運んだ。それは60年代後半には夢であった。しかし今現実のものとなり人間のあくなき技術の探求にはおそれいった。
まずはアメリカ人のベソス氏、そして日本人の前園氏(ロシアのソユーズだが)、二人はそれぞれアマゾンとZOZOTOWNの創始者で世界有数の金持ちだ。
民間人が望めば宇宙に行ける時代到来、と喜んでいいのかそれともただ空を眺めて「やっぱりな」とため息をつくのか、現実を映した格差社会の象徴のような現象であったとわたしは受け止めている。
コロナ禍で見直し始められている「格差の拡大」。それに初めて気付かされたのはリーマンショックの時だ。以来20世紀ではじまった産業革命により「資本家」と「労働者」との格差社会が生まれた反省があったはずだが、いつのまにか忘れられてしまった。
リーマンショックの時は金が金を呼ぶ金融の破綻であったが、儲け話、つまり資本をより増やそうとした結果の破綻だった。
「資本主義」が誕生してから100年たちこの溝は益々深く、高低の差はとどまるところなく拡大する。
70年代終わりからのデジタル革命、新自由主義、グローバリゼーションの加速がそれぞれに影響し合い今とんでもないほどの持てる者と持たざる者との差は広がる一方だ。
その象徴がスマホだ。手元に一台あればどんな品物でも情報でも手に入れられ、すごく便利と皆喜ぶが、そうした情報を一手に握り更に活用、ワンクリックしてくれれるだけで大儲けしているGAFAをはじめとしたいわば濡れ手で粟のような商売が跋扈してわたしたちが知らないうちに大儲けをしている人たちがいる。
それがベソス氏であったり前園氏である。といって彼らを直接羨んだり、非難する気はない。
そうしたことを可能にしたのは「資本主義」で、中国の例をあげるまでもなく地球最大の人口を有する国家で共産主義を掲げた経済小国がわずか30年で世界第二位の経済大国の地位まで押し上げる力を持っていることに今私たちは驚かされる。
「資本主義」恐るべし。
カールマルクスが20世紀初頭に危惧したことが今現実のものとして現れているだけだ、という意見が出始めた。というよりコロナ禍が現実を知らしめてくれたといっていいだろう。
人が動かない、サービスが受けられない、でも買いたいものはスマホさえあれば手に入る。いままでにない対人での接触がなくとも何とかなってしまう世界で、結局はそうした装置を握ったものが金持ちになるシステム。
資本主義というと資本家が労働者の労働を搾取して儲けるものといわれてきた。実際そうなのだがそうした人間関係はすこしづつ是正されてきたと誰もがおもったが、ブラック企業など少ない社員で過剰な労働をさせる「資本主義」はなくなってはいない。
コロナ禍で一旦それが立ち止まり振り返ってみると、以上のようなことがおきていたのだ、と目覚めさせられた。今斉藤浩平氏が書いた「人新世の資本論」が読まれているのはマルクスのいう20世紀初頭の資本家と労働者との問題提起を更に複雑化させた現代を俯瞰し、わかりやすく解説して見せた内容で納得させられたからだ。
マルクスのいう、近代以前のモノとヒトとの関係を崩したのが「資本」という名の怪物だ。もともとモノの価値はモノであったが、そこに貨幣が仲介することにより流れがスムーズになった。
そこに生まれたのはモノ=価値=モノの物々交換のシステムとは違う、モノ=金=モノで価値は金に換えられ金そのものを増やすことが目的となっていった。
近代国家は金がないと国民を養うことができないと知り、殖産興業、輸出入で稼ぐよう企業(資本家)の尻をたたく。
それには労働者の働かす時間を伸ばせば金が余剰にはいると考えたのが資本家といわれる人達。彼らはその余剰の金をまた投資してさらに利益を得るようにするから、益々金が溜まる。
であるので資本家には金は尽きず、労働者はわずかな給与で最大限の労働をさせられ、その地位から脱出できなくなる。
イノベーションは資本家が楽に金儲けができる新しい生産システムのことで、生活が便利になるということは副産物でしかなく、要は金儲けの手段である。
もちろん資本家だって判断を誤れば失敗し、破産もするだろう。そうした競争が人類を宇宙にまで送った原動力になったのは間違いはない。
そしてわたしたちはいつまでも「競争」させられる。
しかし、資本はなにかというとヒトとモノであることはかわりなく、金はその間にあるものであって、今では普遍のものになってしまった。今問題になっている地球環境の変化も地球のモノである資源を乱伐して得た結果である。
これは有限であってそれが無くなった時人間はどう生きていくのだろうか。なので、民間人が宇宙にいったことをそれほど喜べないのはそんな理由があるからだ。