居場所
何回かこのブログでも書いているが、現在のわたしには居場所がなくなっていて、精神的におい詰められている。おそらく日本中の人の大半がそういう状況になっているのではないか。
いや、お前は一人暮らしでそうだろうが、家族のいる家ではそんなことはない、それは本当にそうだろうか。むしろ夫は会社に、子供は学校へ、そしてその間妻は一人の時間をむしろ楽しんでいたのではないか。
夫は会社で仕事をするも、帰りには同僚たちとちょっと一杯で息抜きができ、子供も放課友達と公園で遊ぶこともできる。母だって昼間女子会を開いておしゃべりする、こうした誰しもがホット一息つける時間は必要だ。
人間、生きる意欲は特に生産に従事していない時間にこそ育まれるもの、とわたしは考えている。つまり、ご褒美のようなものだ。
今その時間が奪われている。父は、もしくは母はテレワークで会社とのやりとり、パソコンに向かいながら仕事をしている。家にいる母は家族中の食事を三度三度用意しなければならずで、子供たちはあまりかまってもらえず、また家の外で遊ぶことを制限され勉強にも身が入らない。
それぞれ個人の居場所がなくなっている状態、それはわたしとおなじではないか。
狭い家の中で角突き合わせていれば、感情的な対立が起きても不思議ではないし、逃げ場がないのは健全な生活とはいえない。
おそらくこれは都会人のみのことなのかもしれない。農業など自然相手に仕事をする人たちにとっては家に閉じこもっていては仕事にならず、自然の中、生産に従事することで、広い世界にいることが実感できるのでストレスは溜まらないと想像する。
といって、災害にあったり、生産したものが流通しなければまた別の悩みが生まれるだろうが、まあ都会の狭い部屋に暮らすよりは、心はそれほどストレスに侵されることはないと思う。
行動範囲が狭い、ということはこんなにも人間の心を蝕むものなのか。今山へ行くな海にいくな、パチンコ店にはいくな、といくな、いくなの自粛要請の嵐のなか、先の見えない状況にいら立ちだけが募ってくる。
いやパチンコ店はともかくあれはギャンブル依存症なので別問題だが。とにかく問題は家以外の心が解き放たれる居場所。
以上書いたように普段だったら居場所になるものが各々あったの、しかしいまは家に居ろという半強制的な仕儀になっていて、これだけじゃ心がもたないよ、ということをいいたかった、我慢もね、そろそろ限界に近づいてくる。
つくづく娯楽は有料であっても無料であっても、それがカフェでの1杯のコーヒーであっても人間には必要なものだと感じている。