1917 命をかけた伝令 | きつねの部屋ブログ版

1917 命をかけた伝令

 先の米国アカデミー賞の受賞候補になった作品である。

 

 日本での公開が2月14日(金)、前々からこの映画の存在を知っていて、戦争映画、特に第一次世界大戦ものは是非観に行きたいとおもっていたが、当日は「菜の花忌シンポジュウム」へ行かねばならなかったので、翌日の土曜日、すなわち昨日に鑑賞した。

 

 まず、邦題にがっかり。サブタイトルの邦題をつけたのは、「1917」では内容が日本人には伝わりにくい、もしくは「命」という言葉を選んで、切迫した状況を表したかったのかもしれないが、これは完全なる蛇足。既に観る人は戦争映画だと判って映画館に来ているのだから、いかにもなサブタイトルはいらない。

 

 ま、気を取り直して映画を観てみた。「1917」は1917年のこと。アメリカ軍の参戦などにより第一次世界大戦の潮目がイギリス、フランスの連合軍側に変わり、翌年に終戦を迎えることとなる時期にあたる。

 

 戦闘は主にフランスなどの大陸でおこなわれていた。敵国ドイツがロシアと対峙していた東部戦線とイギリス、フランス軍と対峙していた西部戦線とに別れ、映画はこの西部戦線で戦闘に参加しているイギリス人兵士2人に下った命令からはじまる。

 

 場面はのどかな野原が広がる平原、次第にカメラが引いていくと横になって寝ている兵士が映り、なおもカメラが引くと木にもたれ目をつぶっている兵士がいる。

 

 突然彼らの上官がきて、二人に本部へ出頭せよと告げる。ここからこのワンカットのカメラワークが始まり、最後までこの兵士の姿をおいつづけることになる。

 

 命令は、いまドイツ軍が撤退しているよう見えるが、情報などを総合するとどうやら罠らしいので前線に赴き、翌日の朝決行予定であるイギリス軍一連隊1600名のドイツ軍への攻撃をやめさせよ、というものだった。

 

 命令を受けると二人は他の兵士たちを押しのけ塹壕をでて、有刺鉄線の張られたバリケード、砲弾がさく裂し、深く水が溜まった穴、そして収用されていない死骸などを乗り越え草原にでて、一路友軍に向かうが途中飛行機の落下に遭遇したり、ドイツ軍兵士から狙撃されたり、ドイツ軍が地下に作った兵舎に足を踏み入れると爆弾トラップにひっかかったりし、何度も危険な目に合う。

 

 果たしてこの二人、無事前線の連隊に攻撃中止命令を伝達できるのか。

 

 カメラは彼らの前に出、後ろを追いかけ昼夜わかたず兵士を追いかける。室内の場面はほとんどなく、屋外で撮影され戦場の臨場感満載。

 

 ときおりでてくるのどかな風景のほうが、次になにかあるのではといった気持ちにさせられる。こうした緩急の連続性がカット割りにない緊張感を感じさせる。

 

 特に伝令の任務を果たすため、兵士が塹壕を飛び出しドイツ軍へ向かい総攻撃するイギリス軍兵士たちのなかをかいくぐり懸命に走り横断していくのだが、敵の砲弾のさく裂を縫っていくシーンが圧巻だ。

 

 ただ、この全体を通しての長回しワンカット風の撮影手法には功罪がある。映画作りを良く知るものがみると、長回しのカメラではあるが、兵士の前から後ろへ回るシーンで一瞬主人公である兵士の姿が消え「ああここでカットがはいる」と判ってしまう。

 

 いやそれは問題ではない。ただ兵士の姿だけを追い続けることによる視覚的効果にドラマ性を感ずるか否かである。

 

 どうも撮影の大変さだけが頭に残り、ストーリーが頭にはいってこない恨みがある。確かに兵士の感ずる恐怖や緊迫感は伝わってくるのだが、観客としてちょっと置いてけぼりになったような気分も感じる。複雑さや難解さはない分、薄味の内容になってしまっている。

 

 様々な人物たちが出てきて、彼らがそのシーンでイニシヤチブととることにより、主人公が活きる。そういうものが映画であることを考えると、こうした実験的な撮影手法が適切だったのかとは思う。

 

 いまさらながら、時間と空間を飛び越えることができるカット割りとシークエンス、そしてそれを集積したシーンの結合、その作用によって映画というものが出来上がるのだ、ということを感じた。つまりは緩急のメリハリである。

 

 一言でいえば立体的に物語や人物を浮かびあげる映像作品にはカット割りの集積、シーンの集積は必要。それは想像力を刺激するからで、観客も映画の主要キャストとして参加しているということだ。

 

 とはいえ、サム・メンデス監督の目指すワンカットであらわす戦場風景といった手法は目をひくものもあり、これはこれでありだということ。実際、映画として面白かった。