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motochiの歴史ブログ

歴史大好きな高校生
特に長宗我部元親好きです。趣味は信長の野望・太閤立志伝をしたり、歴史小説を読むことです。マニアックな武将を紹介します。目標は1000人紹介すること。

小杉右近(こすぎうこん)

概要

甲斐武田氏の家臣。武田信玄の近習。

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別名 左近

主君 武田信玄

氏族 小杉氏

父母 不明

兄妹 不明

妻  不明

子  不明

生涯


1572年小杉右近は武田信玄の近習として上洛戦に従軍した。天竜川を渡らせたくなかった徳川家康は自身を含め本多忠勝・内藤信成らとともに3000の兵を率いて天竜川を渡河した。家康の予想に反して武田軍はより早く進軍しており一言坂で徳川軍の本多・内藤の軍に遭遇した。徳川軍は撤退を始めたが、武田軍は追撃を始め馬場信春隊が坂の下の徳川軍に突撃した。またこの時右近は徳川軍をさらに下に先回りし鉄砲を撃ちかけた。これに対し本多忠勝は敵中突破を目指したが、左近は迎え撃たず、道を空けるように指示し本多忠勝隊を見逃した。Wikipediaによると

 

  本多忠勝はその隊の隊長に対し、「武士の情けを心得ているお方とお見受けする、名を伺いたい」と問うた。これに対し、隊の隊長は「小杉右近にござる。わしの気が変わらぬうちに早う行かれよ」と答えた。

 

とされる。戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書を作ったとされる。これは「本多平八」は本多忠勝「唐の頭」は日本では珍しい品で所有していた内藤信成のことを指し二人の武功を称えている。また「唐の頭」は徳川家康の兜を指すとも言われている。またこの狂歌は信其が歌ったものであるという説もある。小杉右近は小杉左近の名前で出回っているが甲陽軍鑑では右近助と表記されており、島(嶋)左近と混ざり間違えて出回ったとされる。しかしその甲陽軍鑑も原書は400年程昔に失われており不確かである。それら含め考慮した上でブログでは右近として紹介している。ただし小杉右近(左近)が出てくる資料は甲陽軍鑑だけで作者も高坂昌信(春日虎綱)や小幡景憲など諸説があり資料に間違いや創作も存在し実際にそんざいしたかは不確かである。その後の右近は甲陽軍鑑に出てこない。筆者的には山本勘助と同じように他の資料が見つかることを願うばかりである。

関連

参考資料

 

小杉左近

 

一言坂の戦い

 

 

最終更新 2025/06/07