酒井忠尚 | motochiの歴史ブログ

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酒井忠尚(さかい・ただなお、ただひさ、ただよし)

概要

三河上野城の城主。

?年ー1565(1568とも)年

別名 忠賀、将監

主君 松平広忠→元康(徳川家康)

氏族 酒井氏

父母 酒井康忠(忠善、酒井浄賢などの諸説あり)

兄弟 忠親?、忠次?

妻  不明

子  尚昌、重元

生涯

酒井忠尚は徳川家康(松平元康)に対し三河一向一揆と同時期に謀反したため資料が少なくなっている。そのため父、兄弟が誰なのかは複数の説がある。江戸幕府が編集した寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜、藩翰譜によれば酒井浄賢の子とされている。

Wikipediaによれば

 

  一方で『藩翰譜』は忠尚が兄、忠次が弟(いずれも浄賢の子)であるという系譜を紹介しつつ、忠尚が叔父、忠次が甥に当たるとする説も載せており、忠次は浄賢の孫にあたると考証されている。また幕末に編纂された『系図纂要』や『三河志』では、忠尚が叔父、忠次が甥(浄賢の孫)であるとしている。

 

上記のように一族の関係については不明なことが多い。

忠尚は松平氏の一族酒井氏の左衛門尉酒井氏出身で松平広忠の時代から重臣であった。

しかし1540年に織田信秀の三河侵攻に降伏し織田側についた。そのため広忠に上野城を攻められ帰参している。1543年にも松平信孝に同調して織田側についたが再び攻められ帰参している。広忠死後1549年にも背いたが今川家重臣太原雪斎に攻められまたも帰参した。そのため松平元康に重臣として仕えることになったが、今川義元からは個別の扱いを受けていて自立性も有していた。その後吉良氏の攻撃を受けるも深溝松平氏の援助を得て戦っている。1563年元康にに対して挙兵し、上野城に籠城し元康と戦っている。同時期に三河一向一揆が蜂起したため一向一揆に与したとされているが、挙兵の方が早く、一向一揆側との連絡の形跡も見つかっておらず確証がない。翌年元康と一向一揆が和議を結ぶが忠尚は上野城で抵抗を続けた。しかし落城間際に城から逃亡したという。

大樹寺の過去帳によると1565年に亡くなったという。

 

 

関連

 

参考資料

 

酒井忠尚

 

最終更新 2025/06/07