人は、何の為に生まれ、何の為に生きているのだろう?

別に人生観を語ろうとしている訳では無いのだが、すごく最近思うことがある。

なぜ悩むのか?
多くの人の笑顔や喜びや幸せを、誰もが小さい頃集めていたはずだ。

この子は、将来どうなるのかな? この子はきっと優しい子になるよ・・・・。
だけど、そんな期待や温かい温もりをどこかに置き忘れ、1人の人間として成長していく。
いつしか、自分自身の存在価値すら忘れてしまう。

そして、常に自分を中心として



悩む



多くの相談を受け、多くの価値観を体験した。

だけど、心の病だけは、大きな現代の問題として常に頭にひっかかります。


ある文献によれば、様々なストレス・悲しみ・過労などによりセロトニンやノルアドレナリンといった脳内の神経伝達物質の働きが悪くなることにより発症すると言われ、心の風邪とも表される。
誰でも、ひく可能性がある、一般的な病気だと言う代名詞で風邪を選んだのだろう。


ワタクシも、何の気力も起きず、ものすごく身体がダルい時など頻繁にある。
それが、毎日続くときもあれば、すぐ治まる時もある。


しかし、辛いと思うことは無い。それは、その症状が、自分自身で起こしている物だと、ワタクシには考える習性があるようで、どうも、自分自身のせいだと思って、納得すると、症状が落ち着いてしまう。


なったこと無い人は、苦しみが判らないんだと言われる。
「がんばって」が症状を悪化させると言われる。
期待も良くないと言われる。

ただただ、黙って見守る事が最善という。


それはさ、やっぱり自分の中に整理すべき原因を持っていて、それは他人に口を挟まれたくないって事からじゃないのかな?と、最近思ったりもする。


色んな人が、心の病に侵されて行き、この世の全てが霧に包まれているような生活をおくっている。
でも、その霧を晴らすのは、第三者じゃなく、自分自身しかいないんじゃないか?


それが、出来る人は言う。甘えんな!皆辛いときあるんだ!とね。


だけど、そんな他人の意見すら全てシャットアウトしたくなるのかな?
苦しみが判るか!って。


確かに判らない。判らないけど、他人がいる事で、自分の存在を確認する。
客観的に見ろって言葉あるけど、客観的に見れる人、何人いる?

客観的に見てるという人でも、自分は他人にどうみられるか?という視点で見てる人多くないかな?
他人がどういう見かたをするかなんて、他人じゃないから判るわけがない。
他人にどう見られるか?と言いながら、自分の”価値観”で見られる姿を考える訳だから、自分の主観を客観的に表現しようとしているんだと思う。


子供の頃、多くの期待を背に成長してた頃。まだ”自分”というのが見えない頃。
”干渉するな”と言えただろうか?


干渉され成長させてもらった事を思い出し、自分と同じ世界に必ず他人(第三者)が存在している事。
そして、その他人からも干渉をもらい成長しているという事が現実社会なのじゃないだろうか?


干渉するなと言われたら、干渉は出来ないが、この苦しみが判らないのに判ったような事を言うな!
と言われることも、重々承知でも、言わなきゃいけない時があるんじゃないかと思う。


道路で頭から血を流して苦しんでいる人がいたとしたら、皆さんはどうしますか?
「大丈夫ですか?今救急車呼びましたから、もう少しがんばって下さい。」と言いますか?
「救急車を呼んでくれ」と言われて「呼びましたよ」と聞かれるまで答えず肯いてますか?


繊細でデリケートな”ココロ”を持っている人間だからこそ、”難し”く、計算どおりには行かない。
自分で何とか出来るなら、心療内科も、よき相談者も要らない。
自分で何とか出来ないから、心療内科で”信頼”出来ると思われる先生に相談し、薬で脳内物質をコントロールして脱出しようとする。


でも、何故、心療内科の先生には信頼できるだろうとココロを開けるのか?
先生の何を知っているんだ?先生の何が話すに値するんだ?
救いの手を差し伸べてくれそうな・・・ もしくは色んな人に手を差し伸べてきたという”実績”や”背景”か?


浮浪者からだって、小学生からだって、2歳児からだって、きっと学べるはずだし、きっと自分へメッセージをくれているんだとおもうけど、それを採用するか、拒否するかは、結局自分の”ココロ”次第なんじゃなかろうか?


他人に救いを求めるなら、症状の辛さが判らない癖にと言う前に、辛さが判らない人のいう事も受け入れる気持ちを持つように出来る方法は無いか?
辛さが判る人同士が寄り添って、慰めあって「そうだよそうだよ」といっても、結局いつしか”自分で気づく”時が来て克服するんじゃないのかな?


ワタクシの親友は、心の病で命を落としました。
彼が言っていたセリフで今でも忘れられない事があります。


「お前ら仕事バリバリやって凄いよな・・・。それに比べ俺は何やってんだか・・・・」


ワタクシ達の存在自体が彼を追い詰めている事実。そればかりは、どうする事も出来なかった。
彼は”自分”をワタクシ達と比較し、落ちていった。それは彼の”比較する考え”を変えない限り、我々では姿を消すこと位しか出来なかった。


”自分を受け入れる”


ワタクシは、それしか無いと思う。否定的な考えの自分も、何かに深い悲しみを抱いている自分も、楽しい自分も、怒っている自分も、そそっかしい自分も、夢破れた自分も、夢抱く自分も、全ては

”自分が作り出している”


そう思えてならない。そういう認識が出来ないのも、考えられないのも全て、病気のせいと言われると言葉は無い。人間しか持っていない複雑な”ココロ”が織り成す様々な現象は、言葉では表すことは出来ないし。


世の中の、ココロの病をお持ちの方。ワタクシの話が、”苦しみを知らぬ者の配慮に欠ける発言だ”と非難するなら、非難してくれて構わない。
ワタクシの周りにも”判ってくれないし”と悲しみを増す結果になっているケースもある。


判ってもらえないで悲しいのは、”自分のココロが作り出している感情”であり、判っているのか判っていないのかは、結局相手しか本当の事は判らない。相手がわかっていると言えば判っているし、判らないと言えば判らない。

だから、結局、自分の”価値観”で解釈するしかないんだよね。
その解釈する”価値観”を変えるのも、変えられないのも、”自分”


そこで、辿り着く。
価値観ってなに? 人生ってなに? 何の為に生まれてきたの? 何の為に生きているの? 


自分がなんなのか? そんな、答えの出ないパズルに頭を抱えているより、自分のすべきことは何なのか?と見つかりそうな宝探しの方を、ワタクシは選ぶ。

いつしか、笑って、話が出来る日が来ることを願い。

※この文中にあるものは、ココロの病を否定しているものでも、肯定しているものでもありません。
あくまで、ワタクシのココロの中で考える独り言でありますので、人権の侵害等を意図しているものでもありません。