題名・実は料理人なのだ
「食べて貰いたい相手を考えて作ってください。自分が美味しいと思えば、相手も美味しいんです。自信を持って食べて貰いましょう」
目の前で子供たちは目を輝かせた。
夏休みの子供たちにと企画した公民館主催の「キッズクッキング講座」は成功したようだ。ほっと胸をなでおろした講師の私。
いまは白髪のおじいちゃんだが、引退するまで半世紀に渡り、料理を作ってきた。そこで得た知識と技術を用いて、料理の楽しさをみんなに伝えたいなあと考えた時、タイミングよく知人に頼まれた料理教室。待ってましたとばかり、料理教室の講師を引き受けた。
講座も4度目。それまでは年齢を限らず、子供から年配者までの参加者を募り、和気あいあいと料理作りを楽しんだ。今回は子供に料理の面白さを知ってほしいと考えたのだ。
私が料理と出会ったのは、小学生の時。暮らしていた田舎は農家が殆どで、地元の小学校は農繁期休みがあった。忙しい農作業の手伝いをするためだった。
「お前、メシ炊いてみるか?」
農作業は親せきや隣人らが10数人手伝いにやって来る。その働き手の食事作りは大事だった。かまどにかけた大釜で、ご飯やおかずを炊き上げた。その様子が面白くて、いつも覗いていた私に声がかかった。反射的に「うん」と頷いたのは運命だったかも知れない。
母の教え通りに炊いたご飯は、おむすびに握り、みんなのお昼になった。
「美味いのう、このメシは」「誰が炊いたんや」
そんな誉め言葉が嬉しかった。台所は有頂天になった私の居場所になった。ご飯におかず、煮炊きが殆どでも、自分が思った出来上がりに一喜一憂する時間は貴重だった。
「美味いわ」「婿やなくて嫁さんになれるがな」
大人の賞賛は、私と料理をしっかりとつないでくれた。中学高校は学ぶことが多くなり、料理を楽しむ余裕はなくなった。即席ラーメンを作って食べるくらいが関の山だった。
社会に出て就いたのは、考えもなしに妥協で選んだ仕事で、6年続いたのは惰性に他ならなかった。
ある朝、朝刊の地域欄に「調理師学校」の募集チラシを発見。(これだ!)思い切って仕事は退職、調理師学校に入学した。授業は面白かった。やはり料理が好きなんだと納得した私。実習でいろんな調理器具を使い、調理法も思っていた以上にたくさんあることを知り、もう面白くてたまらなかった。
卒業すると、学校推薦のレストランに就職。これがまた面白い職場だった。商工会議所の中にあり、経営者が大半の利用者で、パーティー料理など、楽しめる仕事が増えた。
10年働いて、自分の店を持つために退職。
「前向きな動機じゃ、やめるなとは言えないなあ。これからを期待してたけど、独立を応援するよ。いつでも相談に来てよ」
職場の上司は快く送り出してくれた。惜しまれながらの退職は初めて、失敗はできないと気が引き締まった。
退職から自分の店の開店まで二年。独立に必要なスキルを身に着けるための期間となった。簿記学校に通いながら、中央市場、駅中喫茶店、郊外レストラン、観光ホテルなどでアルバイト。もともとは洋食レストランのシェフだから、中華・和食・喫茶・コーヒー専門店などを渡り歩いた。性格的に臆病なので、十分なスキルを習得したかったからだ。
念願の店は「喫茶スナック店」開店資金が少なくて済む小規模な店舗だった。それでも物件探しから改装まで、800万程度かけた。簡単には諦めないという覚悟の投資だった。
結局15年頑張った。その過程で、結婚も子育ても叶った。よく頑張ったなあと今更ながら当時の自分を褒めてやりたい。
好調だった店の営業を諦めたのは、4人の子供たちの教育資金の捻出のためだった。特別手当のつく深夜専従の弁当仕出し工場への転職に踏み切った。弁当仕出し製造は、深夜労働が常識。慣れるのに少し手こずった勤務も、リズムが掴めると、楽しめるようになった。中国・ブラジル・ベトナムからの研修生と、国際色豊かな仲間とのチームワークづくりも楽しい思い出である。
「巻けたよ。おいしそうでしょ」
声をかけてくれたのは、料理講座に参加の小学生。彼が持つフライパンには、きれいに巻き上げたオムライスがあった。「上手に巻いたね。もうプロの料理人や」誉め言葉は自然に出た。彼は満面の笑みをくれた。
「これを食べて貰いたい相手は誰だい?」
「おかあさん。いつも作ってくれるんだ、おいしいオムレツ。でも卵の服が破れていたり、焦げたりするんだ。僕のは綺麗でしょ」
胸を張って、得意顔を作ってみせた。
「料理するって楽しいだろう」
「うん、面白い!料理大好き!」




