耳鼻科と眼科に行かなければならないかも。 | 所長日記・改

耳鼻科と眼科に行かなければならないかも。

おはよう同志諸君。

11月だというのに、秋の足音が私には聞こえない。

耳が悪くなったのだろうか?

というわけで、相変わらず袖まくりをしている。

当然に夏用ズボン。

もし12月もこの格好なら、

秋の、場合によっては冬の足音が聞こえるように耳鼻科に行こうと思う。



さて。

オーギュスト・ロダンの作品に

地獄の門

という彫刻がある。

世界に4基ある地獄の門のうちの一つが

東京上野の国立西洋美術館にあるのだが

実はコレ、無料で見ることができる。

東京に行くことがあれば、是非見るように。

必ず見るように。

見なければ破門だ。



さてさて。

地獄の門の説明については

wikiるなりググるなりすれば良いのだが

話の流れ上、簡単に。

ダンテによって書かれた叙述詩『神曲』

その地獄篇に登場する地獄の門をテーマに作成されたブロンズ像である。

門なのに“登場する”という表現は奇妙に思われるかもしれないが

門に

Per me si va ne la città dolente,
per me si va ne l'etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.

Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e 'l primo amore.

Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'.

我を過ぐれば嘆きの都あり、
我を過ぐれば悠久の苦悩あり、
我を過ぐれば忘却の民あり。

我が創造主は、義の下で
聖なる威力、至高の智慧、
究極の愛にて我を造れり。

永遠たるとして我より先に造られしは無し。
しかして我、永遠に在る。
我を過ぐる者、一切の望みを棄てよ。


※H.C的解釈を含んだ訳。転載自由。但し、私自身のイタリア語読解力は赤子の手をひねる赤子程度です。

という銘がある。

門が自らを“我”と呼んでいるのだから

人格、尤もこの場合は意思のある存在、とみなして“登場”といって良いに違いない。

これにインスパイアされたオーギュストは

地獄の門を製作したらしいのだが残念ながら未完に終わっているらしい

真偽は本人に聞くしかないのだが

残念ながら当然に彼はこの世にいないので

イタコに頼むしかない。



さて。

で、

この地獄の門だが

私には地獄の門には見えない。

寧ろ天界の門に見える。

天使など一位も居ないのだが

そう見える。

理由は分からない。

私は初めてこの地獄の門を見たときにそう感じた。

確かに私は目が悪い。

それを差し引いても、聖なる存在に見える。

そして、先日。

色々あってまた見に行く機会があったのだが

そのときもその感じは変わらなかった。

何故だか分からない。

ブロンズ像なので黒色だが

もし石膏や大理石などで造られた白色系の像ならば

きっと私の意見、寧ろ直感に賛同してくれる人は多いことだろう。



とはいえ、名作には変わりない。

小一時間は見ていられる作品なので

見るように。



では。