アカギ
あなたは赤木しげるを知っていますか?
知らない?
じゃあ良いです。
最近、牌を握っていない。
昔は「牌を温める」などというわけ分からない専門用語を使う程だったが・・・
それも今では、緑の戦場を見ることは勿論、
ぬるりとくることも無い。
・・・まあ、面子が揃わないからだな・・・
そうそう。
私はこれをするときは左利きなのだよ。
左打ちと言うべきかな?
あと、回して開ける蓋(ペットボトルとかビンとか)も左手じゃないと開けられない。
右手で開けようとするとまごまごしてしまう。
箸も鉛筆もハサミもボール投げも右なのに
これと蓋開けだけが左利きなんだよなあ~。
あ、あとひとつあった・・・
でも、書かんどこう。
体調を崩している所為か、
取り留めの無いことが、即ち、日記のネタがたやすく浮かぶ。
内容が面白いかどうかは既に判断できないのだが、
筆が(キーを打つ指が)止まらないということは
・・・熱があるんだろう。
ということは
つれづれなき事をそこはかとなく書いた、あの吉田兼好は
とても頭熱い子だったに違いない。
だが、熱があるときこそ
物事を考えるのには最適だ。
物事を考えるといっても、
“「1→n」の考える”ではなくて
“「0→1」の考える”だ。
新しいことを生み出そうとする時は
時として非尋常でなければならない。
歴史に名を刻むような作家や芸術家は皆やはりどこかキレている。
また、数学者や哲学者、心理学者も然り。
キレている奴に哲学や心理学を語られたくは無いという気もするが、
非尋常であるからこそ見えるものもある。
まあ、そういったものだ。
最近の子は直ぐにキレるというが
私が住まうところが田舎の所為か、キレる子にそれほど出会わない。
キレるというのは凄まじいエネルギーを使用する。
逆を言えば、キレるだけのエネルギーがあるからこそ、キレるのだ。
普段はおとなしい子が、一度キレたら止まらないということからも分かる。
無限の許容力をもつ人間などこの世には居ない。
普段、予定調和・協調性のために溜め込み、
それでいて発散する場を与えられずに、
輪を掛けて勉強しろと一方的に押さえつけられ・・・
・・・そりゃふとしたことで爆発するよ。
その子がキレるのは意外なのではない。“必然”なのだ。
若い子にはもっと、エネルギーを消費させる場を提供するべきだ。
ポイントは“消費”であって“浪費”ではない。
部活などは“浪費”である。
勿論、健全にエネルギーを消費できる上に達成感もある部活も存在するだろう。
しかし、私が思うにそんな部活は一握だ。
ダラダラしているからと校庭を走らせたり、
やたらと殴ってみたり、
あんた何様?
日本代表のコーチとかならまだしも
ただの中学の英語教師や国語教師じゃん。
しかもお世辞にも教え方が巧いとはいえない。
おおっと、ちょっとずれたな。
部活動の大半は無駄な活動である。
入ってみて面白みが感じられなかったらさっさと止めた方が良い。
また、学習塾に通うのも“浪費”だ。
確かにゆとり教育の所為で学校が役に立たない分だけ行かざるを得ないというのも事実だが、
子供が嫌ならば行く必要(行かせる必要)は無い。
嫌なものを無理にしても入ってくるはずも無い。
“詰め込み型の塾”で頭に入るような子供なら、自分ひとりでなんとでもできる。
さて、“消費”と“浪費”の違いはなんだろう。
それは、“実”である。
“実感”と言った方が分かり易いかもしれない。
最近の子は自分の置かれている環境から導かれることが何かという実感を全く持っていない。
実感の無いまま生きること、それは浪費以外のナニモノでもない。
部活でシゴキをするのなら、それに根拠を与えてやれ、結果を与えてやれ。
それが出来ない、少なくとも約束できないのなら理不尽なことを言うな!
13~15歳という大切な時期に
生きていく上で役に立たない知識を詰め込ませるというのなら、
少なくとも高校受験においての責任は取れ!
高い授業料を払っているんだ。
志望校に入れなかったとき全額返還するくらいの覚悟でやれ。
・・・と私がこんなところで叫んだところでなんにもならないけどね。
ところで、
非尋常=非常
なのか
非日常=非常
なのか・・・
言葉を紡ぐ者として悩むところだ。
とある用語集を作っていた私としては、
言葉を定義するということはとても大切なことだ。
他者からは曖昧もしくは意味不明に思えても
仲間には直達するものでなければならない。
かつて、薩摩藩が倒幕の事実を悟られぬようにする為に鹿児島弁をややこしくしたかのように・・・
・・・
・・・
・・・・・・
やはり、熱があるのか?
「高麗人参茶が意外と美味いなあ・・・」と思う私は体が弱っているに違いないと思うH.C『H.C研究所ホームページ』へ