上杉憲政 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

上杉憲政



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(大河ドラマ『風林火山』より。演者は市川左團次さん)


上杉憲政【うえすぎのりまさ】
(1523?~1579)


山内上杉家当主。関東管領。上杉憲房の子。仮名は五郎。憲当とも称す。法名は成悦、光哲、光徹。

1525年(大永5年)、憲房の没後、憲政は幼少であったため、古河公方足利高基の子で憲房の養子となっていた憲寛が一時関東管領職を継いだ。1531年(享禄4年)、憲寛から譲られ関東管領職に就く。

1536年~37年頃には、上野国平井城を本拠とし、扇谷上杉朝興と連合して北条氏に対抗する。1545年(天文14年)、大軍をもって北条方の北条綱成が守る河越城を包囲したが、翌年4月救援に来た北条氏康の夜襲により敗北し、平井城へ逃れた(河越合戦)。以後、武蔵国における北条氏の優位が決定的となる。

1547年(天文16年)8月、武田信玄に攻められていた信濃志賀城主・笠原清繁の救援要請を受け、憲政は信濃国佐久郡へ出兵、小田井原で武田軍と合戦したが敗北し、志賀城も落城した。その後も憲政は、大井貞清・村上義清らと同盟して武田氏に対抗した。

1548年(天文17年)、離反して北条方に味方した上野国峰城主・小幡憲重が平井城を攻撃した。これは北条氏の勢力が上武国境地帯に及んだことを意味する。1551年(天文20年)冬には上武国境付近の武蔵御嶽城を落とされ、上野国に迫られた。上野国内では那波氏が北条氏に味方し、さらに利根川以西の平井城周辺領主もこぞって憲政から離反した。これにより、翌年、憲政は平井城を退去して金山城主由良氏や足利長尾氏を頼ったが受け入れられず、やむなく上越国境地帯に退き、越後の上田長尾氏や平子氏らを取次として、長尾景虎(上杉謙信)に救援を依頼した。この頃、出家して成悦と称している。

憲政の越後入りについては1552年(天文21年)説と1558年(永禄元年)の秋説とあるが、単なる入国と亡命とをわけて考えるならば、1552年5月までに山内上杉領である上田荘に入部していた可能性はあり。なお、平井城(御嶽城との説もあり)に籠城していた子の龍若丸は北条方に捕らえられ斬首されている。

1560年(永禄3年)秋、謙信に供奉されて関東出兵を果たした(この直前に光哲と称する)。翌年閏3月、憲政は鎌倉にて謙信に上杉氏の名跡を譲った。その後、古河城に入り、1562年(永禄5年)には越後に戻って、以後は御館に居住した。

1578年(天正6年)3月、謙信の死去により起こった家督争い(御館の乱)では、北条氏康の子で謙信の養子となっていた上杉景虎とともに御館に籠城し、景勝方と対峙した。翌年3月、和睦交渉のため景虎の子道満丸を連れて春日山に向かう途中、道満丸ともども殺された。享年57歳と言われる。










関東管領とは、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方(関東公方)を補佐するために設置した役職名であります(・∀・)ノ


本来の任命権は将軍にあったのですが、実際は鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形をとっていました。

しかし政情によっては幕府の独断で任命したりしており、享徳の乱によって鎌倉公方(古河公方)と関東管領が敵対、分裂すると名実とも幕府が任命するようになりました……が、最終的には山内上杉家の当主が家督とともに継承する家職となりました。



上杉憲政はそんな山内上杉家の家督を継いだからこそ関東管領でしたが、典型的な凡将と言われ、北条氏に連戦連敗……

『甲陽軍鑑』には、おバカの大将の見本とまで言われる始末汗


そう言われるのも、北条氏を軽輩と見下していたからと……大河ドラマ「風林火山」でも、北条氏を「伊勢」と呼んで、あくまで身分賎しい出自だと言い立てていましたしね。

(本来なら伊勢氏は幕府官僚の家だから賎しくはないんだけど)





そんな人だから北条を骨の髄まで憎んでおり、北条討滅の願文を鹿島神宮に納めています。


が!越後滞在中に起きた御舘の乱で、何故か北条氏康の子である上杉景虎を支持していたと言われてるんですよねえ(・・;)


年齢を経て考えが変わったのか、それとも景虎は超イケメンだったらしいから……











ともあれ、乱世に翻弄された人であったと言えます。