小寺政職 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

小寺政職



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(NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』より。演者は片岡鶴太郎さん)




小寺政職【こでらまさもと】
(1517?~1582)


播磨御着城主。小寺則職の子。通称は藤兵衛。小寺氏は赤松氏の分家にあたり、祖父政隆の代までは姫路城を本拠としていた。

赤松氏の重臣として仕え、1521年(永正18年)に赤松義村が浦上村宗に殺害されると、義村の遺児赤松政村(のち晴政)と共に細川晴元を頼って落ち延びた。1531年(享禄4年)に村宗と細川高国を討って赤松氏の再興に尽力した(大物崩れ)。

政職は1540年~1541年頃に元服して、政村(晴政)の偏諱を受ける。その後は幾度かの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。この間、政職は多くの家臣を登用し、中でも牢人であった黒田重隆・職隆父子の能力を認め、1545年(天文14年)に彼らを家老職に引き上げ姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えている。また自身の偏諱を与えた職隆の子・孝高(官兵衛)にも、自らの親戚筋(櫛橋氏の娘・光)をめとらせるなど厚遇している。なお、黒田氏の家紋である橘紋は、黒田職隆が小寺氏に仕えた際に下賜されて以来のものである。

1576年(天正4年)、播磨に東から織田信長、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、政職はかねてから織田氏と誼を通じていた孝高の進言を受け、織田信長に従った。ところが、1578年(天正6年)に荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。

しかし1580年(天正8年)、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びたという。1582年(天正10年)死去。享年66歳といわれる。

なお、子に氏職・正則らがおり、そのうち氏職は後に黒田氏に仕え、子孫は福岡藩士として代々続いた。












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大河ドラマでは、まさに絵に描いたような“THEバカ殿”な小寺政職……




とは言え、黒田官兵衛を世に出したことはナイスです!(活かせてないけど)


まあ播磨国内だけなら、こんな人でも生き残れたでしょうが、そんな世の中ではなくなっていたのが運のツキ……



裏切りが常の戦国とはいえ、そのタイミングを誤れば滅亡や凋落が待っていますからねえ…





ホント、これは思案のしどころじゃのう←