酒井忠篤 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

酒井忠篤



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酒井忠篤【さかいただずみ】  (1853~1915)


第12代出羽庄内藩主。幼名は繁之丞。第10代藩主・酒井忠発(ただあき)の四男。母は萩原紋蔵の娘、五百子(いおこ)。1862年(文久2年)、兄の第11代藩主忠寛の早世により、10歳で藩主となる。

翌年、江戸市中取締を命ぜられた。同年、旧藩士である清河八郎の発案で結成された浪士組が母体となって誕生した新徴組を指揮下に置き、藩士とともに江戸市中警備を担当させた。翌年、3万石の加増を受ける。

1867年(慶応3年)12月、三田の薩摩藩上屋敷を拠点に市中の争乱活動を行っていた不逞浪士の討伐のため、上山藩兵らと出動、交戦ののち多数の浪士らを捕殺した。

翌年2月、多年の市中取締の手当として、庄内藩は旧幕府から旧領の寒河江で7万5000石の年貢徴収権を与えられた。前年の薩摩藩邸襲撃などから庄内へ特別の感情を持つ新政府軍は、これを天領からの徴発と位置づけた。さらに庄内藩は忠篤の父である、元藩主の忠発自ら徳川家の救済にも動いていた。このような状況下、庄内は理由が曖昧なまま会津とともに、新政府の最重要の攻撃対象となったのである。

会津との共闘を確認した庄内藩は、奥羽越列藩同盟に加盟。同盟諸藩と秋田から越後へ転戦し、圧倒的な強さを見せたが、9月に忠発の意志で降伏する。

戦後、家督は叔父の忠宝(ただたか・忠発実弟)が継ぎ、忠篤は西郷隆盛の知遇を得、1870年(明治3年)には旧藩士70人余りと薩摩へ移り、恩讐を越えて多くの示唆を受けた。

1880年(明治13年)家督を再相続。伯爵位も得て、旧領にて没した。享年63歳。








庄内藩も会津藩も同じ薩摩との因縁がありながら、この違いは何なんでしょうね(・・;)



『八重の桜』からでは見えない、別のドラマが出来そうですね。








そして、藩主の忠篤は戊辰戦争の時は数え16歳‥‥

今なら15歳!(゚Д゚)



ハロメンで言えば、りほりほとかあーりーとか佳林ちゃんとかと同年代じゃないか!(←我が必殺技、無理矢理ハロ絡めww)








この年齢で何とも波乱万丈な環境だな(;^_^A

それからのちに西郷の知遇を得たことは、彼を単なる殿様上がりな人物にはしなかった‥‥はずです。