尼子経久
尼子経久【あまごつねひさ】 (1458~1541)
出雲守護代尼子清定の長男。1478年(文明10年)頃、尼子氏の跡を継承。
当初、経久は出雲国守護代として守護・京極政経を援助していたが、政経没後、出雲・隠岐を支配下に収めた。その過程で三沢氏、三刀屋氏、赤穴氏などの有力者を攻略したが、寺社本所領、段銭(※)を横領したために、幕府により守護代職を剥奪され、追放の憂き目にもあった。
(※国家的事業や寺社の造営など、臨時の支出が必要なときに、田地の広さなどの相違に応じて課せられた税)
しかし、それでも旧京極氏家臣を配下に収めることに成功し、美保関代官職を掌握。国内外の貿易の利権を一手に獲得し、経済基盤を築き上げた。分国内で差し出された鉄や大森銀山も、重要な経済的基盤としている。さらには千酌、笠浦、横田の各荘園の代官職も獲得するに至った。
やがて、伯耆や石見の一部の領有化にも成功。周防大内氏とも果敢に戦い、領土拡大に努めた。その後も勢力拡大は続き、最盛期には11ヵ国を制圧。周辺地域の国人らは、経久に従った。しかし、勢いも長くは続かず、毛利氏の台頭や長男政久の陣没、そして三男興久の謀反などに悩まされる。
領国経営としては亀井・牛尾・川副・宇山ら譜代の家臣の所領を遠方に配置して、周辺を防備させた。また、新たに支配下に置いた国人衆には本領安堵、新恩給与による懐柔策をとった。寺社の造営、寄進にも力を入れ、出雲大社、日御碕神社、鰐淵寺を庇護した。経久の娘2人は、出雲大社の千家国造・北島国造と婚姻し、紐帯を強めている。
1537年(天文6年)、経久は隠退し、全てを孫の詮久(後の晴久)に譲った。詮久は経久の跡を継承し、拡大路線を実行するが、1541年(天文10年)に安芸吉田郡山城の毛利元就を攻撃し、大敗。同年に経久は病没した。享年84歳。
この経久もまた戦国武将の典型として、下剋上から成り上がった人物。
この人は変な癖があって、誉められた物をすぐ誉めた人に与えてしまうとか…
どんな高価なものでも、誉められたら「ハイどうぞ」とばかりにあげてしまうので、周囲はホトホト困ったそうで(^o^;
そんなある時、城の庭に見事な松の木があり、ある家臣は「さすがに松の木は人にあげたり出来ないだろう」と、松の木を誉めたところ…
経久はやっぱり松の木をその人に与えたそうです(οдО;)
最初は松の木ごと引き抜いて与えるつもりでしたが、大きすぎて持ち運びが困難だったため、細かく切って与えたそうです‥‥
それじゃ意味ないやーん←
‥‥そんなお話が残ってます
そして、大河ドラマ「毛利元就」に尼子経久はもちろん登場
尼子経久役は緒方拳さんでした
本当にかっちょ良かったですよ~(゚∀゚)
迫力もあったし、元就にとってまさしく高き壁といった雰囲気。
尼子経久を主役にしたドラマがあっても良いと思います!(・∀・)ノ