細川高国 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

細川高国



アイドルは人数より歴史が大事だ!-NEC_1095.jpg




細川高国【ほそかわたかくに】 (1484~1531)


細川家嫡流・京兆家の分流である野州家の細川政春の子。民部少輔、右京大夫、武蔵守。のちに道永・常桓と号する。

管領細川政元の養子となり、政元暗殺直後の澄之(政元養子・関白九条政基の子)と澄元(阿波守護細川義春の子)による京兆家家督争いにおいて、高国は澄元を支援し、澄之を倒した。しかし、1508年(永正5年)、前(10代)将軍足利義尹(義材改め。のちの義植)、大内義興の上洛という政治的契機を活用して、澄元と11代将軍足利義澄を京都から追放し、自らが京兆家の家督を継いだ。

1511年(永正8年)、阿波より澄元が来襲したため、義興とともに丹波へ奔り、京都を一時明け渡した。しかし、すぐに態勢を整えて反撃に転じ、船岡山で澄元軍を破った。大内義興が周防に帰国し、軍事的中核を失うと、1519~20年(永正16~17年)に再び澄元・三好之長の攻撃を受けた。一時之長に京都を占領され、高国は近江へ逃れたが、再び京都へ入り、之長ら三好一族を破って、これを殺害した。

ただし、この時10代将軍義植が澄元方につき、その家督を認めたため、高国との間に隙が生じた。1521年(永正18年)、義植が出奔すると、播磨から12代将軍義晴を迎えた。

高国政権は、短命に終わる戦国期畿内の在京権力の中で、比較的長期にわたって存続した。1525年(大永5年)4月、嫡男植国に跡を継がせ、自らは道永と号したが、植国が早世すると、再び政務に就いた。

1526年(大永6年)の香西元盛の殺害を契機に、丹波の柳本賢治らが阿波の澄元の嫡男晴元と結び、神尾山城に籠城した。高国の送った攻城軍が敗退すると、京都を維持できなくなり、1527年(大永7年)の二度の川乗寺合戦の敗北によって、京都を追われ、伊勢、越前、播磨などを流浪しつつ、号名を常桓と改め、再起を図った。

1530年(享禄3年)頃、播磨の浦上村宗と連携して、賢治を播磨に誘い出して殺害した。さらに赤松晴政・浦上村宗と連合して東上を始め、晴元らの堺政権と全面対決に臨んだ。

一時、摂津を席巻する勢いを見せたが、之長の孫・三好元長の謀略によって、赤松晴政との連携を裂かれ、1531年(享禄4年)の天王寺合戦で敗れると軍勢が四散した。尼崎で捕まり、大物の広徳寺で切腹させられた。享年48歳。








高国の最後‥‥

彼は尼崎でとある紺屋にあった、大きな藍甕の中に隠れていたのですが、近所の子供の密告で見つかったとか汗



何とも哀れ(ノд<。)



これを「大物(だいもつ)崩れ」と呼びますひらめき電球





高国は和歌、連歌、書道、猿楽、犬追物、鷹狩など、極めて多趣味でありました(・∀・)ノ



流浪時にも文化人たちと文通で交流をもっていたとか。




これがある程度長期にわたって、政権を保てた理由だったのかも知れませんね。







ところで、NHKのBSデジタルの時代劇で「塚原卜伝」がありました音符

先日までNHK総合で放送されていましたが、このドラマにおいて細川高国も登場しております。


正直、人間的に最低なイメージな描かれ方ですあせるあせる




で、このドラマで高国役を演じていたのが、安田顕さんなのですが‥‥‥




この安田さん、4月からテレ東で放送される「みんなエスパーだよ」に出演されます!



と、言うことは‥‥‥









アイドルは人数より歴史が大事だ!-NEC_1092.jpg



真野ちゃんと共演するかもー!!ヘ(*゚∀゚*)ノ








(※当然ながら、真野ちゃんと細川高国には何の因果関係もありません。念のためwwww)