佐川官兵衛 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

佐川官兵衛



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佐川官兵衛【さがわかんべえ】 (1831~1877)


会津藩士物頭佐川幸右衛門直道の長男。諱は清直。母はとし。家禄は300石。勇敢活発な人柄だった。

安政年間、江戸で在勤中、本郷で起きた火災の際、些細なことから火消しに同行するする幕府火筒隊の幕臣と口論となり、1名を斬った。示談で決着したが、その後藩地へ戻され、家禄100石を減俸の上、謹慎となった。1862年(文久2年)藩主松平容保が京都守護職に就任、1866年(慶応2年)、長く藩地にいた官兵衛は上洛を命じられる。京都では新設の警備組織別撰組の隊長を任ぜられ、また学校奉行も兼任した。在京中、土佐の剣客47名から、突然の試合申し込みを受けたものの、会津藩の剣豪多数が不在で大敗したことがあった。官兵衛は慰労の酒宴を開き、敗北した藩士が落涙して語るのを手をついたまま無言で聞いていたという。

1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いでは、連日白兵戦で奮戦し、猛勇ぶりから「鬼官兵衛」と称された。戦闘中に右目付近を撃たれるが、ひるまずに戦い続けたという。

京坂から東帰後に藩地へ戻り、閏4月より越後長岡方面に出戦した。その後、長岡藩家老の河井継之助と会談し、奥羽越列藩同盟の諸藩とともに戦闘を展開した。

長期の戦闘後、官兵衛は8月に会津方面へ戻るが、若松城へ帰城することなく、城外で戦闘を指揮し続けた。撃退した敵兵が遺棄した食料や弾薬などを城中に運び込むことにも成功している。さらに8月末には、家老に任ぜられている。

その後、布陣していた田島の地で会津藩の降伏を聞いた。塩川に護送された際、越後で煮え湯を飲ませた薩摩兵から「鬼官兵衛とは貴様か」と愚弄の言葉をかけられる屈辱にあったが、泰然と膝に手を置き、じっと忍んでいたという。のち、斗南で厳しい生活を続ける中、愛妻を失っている。

1874年(明治7年)元薩摩藩士で大警視を務める川路利良より、戊辰戦争での活躍を評され、警視庁への奉職を懇請される。官兵衛は承諾し、300名の会津藩士とともに警視庁へ入った。

1877年(明治10年)、西南戦争の鎮圧隊として熊本へ出動、阿蘇の黒川で白兵戦を行っていた最中、狙撃されて絶命した。享年47歳。








官兵衛の父、幸右衛門は会津戦争で戦死、また官兵衛の長男の直亮は陸軍大尉となり、日露戦争で戦死しています‥‥‥


つまり、親子三代で苛烈な戦死を遂げているのです!(゚Д゚;)


なんとも‥‥‥‥




そして、官兵衛自身もかなり波乱の生涯をおくってますね。


時代に加え、性格的なところから波乱の生涯になったとも言えます‥‥‥




この人が主役のドラマ、普通に出来ると思います(・∀・)ノ






ちなみに大河ドラマ『八重の桜』での佐川官兵衛役は中村獅童さんですひらめき電球





どんな活躍をするか注目です!