丹羽長秀 | アイドルは人数より歴史が大事だ!

丹羽長秀



アイドルは人数より歴史が大事だ!-NEC_0798.jpg




丹羽長秀【にわながひで】   (1535~1585)


通称は五郎左衛門。幼名は万千代。賜姓されて惟住。信長の古くからの重臣。尾張一国時代から部将として美濃の経略に活躍する。元亀年間までは、信長の代表的家臣であった。

しかし、1573年(天正元年)に若狭に封じられたあとは、長秀の出世は頭打ちになる。遊撃軍団の司令官として諸所での戦いに参加するが、単独で全軍を率いたという機会は一度もない。四国出兵軍の副将格にはなっているが、最後まで手伝い要員に過ぎなかった。

ただ、安土城建築の総奉行を務めたことからもわかる通り、戦闘を離れた場での著しい活躍がある。

本能寺の変当時は四国出兵準備で総大将の織田信孝(信長の三男)とともに堺におり、変後は光秀の娘婿である津田信澄(信長の甥)を殺害し、中国から引き返してきた羽柴秀吉と合流して光秀を討った。

この後は秀吉に接近し、その天下取りに大きく貢献したが、主家の織田家が圧迫されていく様に無念の思いを強くした。1585年(天正13年)死去。一説に最後は自ら腹を切って、腹の中の胆石(拳大)を秀吉に送り付けたという。享年51歳。







ドラマでは重臣ということもあり、信長より年上な感じで描かれがちですが、実は信長より1つ年下です(;^_^A

長秀は15歳より信長に仕えていたといわれますから、重臣といっても側近的な、今風にいう秘書室長みたいな感じだったと思われます。

なので信長が天下に近づくほど事務的な仕事に重きを置いていったと言えるのではないでしょうか?



その方面では信長の信頼度は高かったはずですひらめき電球







まさに縁の下の力持ちと言えますキラキラキラキラ