【高屋朗】 | おじさんの依存症日記。

おじさんの依存症日記。

何事も、他人に起こっている限り面白い。

  • twitterでつぶやく

                                     イメージ 1

 
 
  戦前に活躍した、浅草の喜劇役者だ。 「こんな人、知ってる?」 の書庫に書く以上、おじさんは当然知ってると思われるだろうが、あはははは、ぜんぜん知らない。 それどころかずっと、「たかや ろう」 だと思っていた。 正しい読み方を教えてくれたのは、故・色川武大さんだった。 「たかや ほがら」。 ほがら。 なんていい名前だろうと思った。
 
 先ほど、ネットで検索してみたが、全て 「たかや あきら」 となっている。 しかしここは、少年の日に舞台をリアルタイムでご覧になったという色川さんの読みを信じたい。 ひょっとして、戦後、本人が読みを変えたという可能性もあるが。 どちらにしろ、その人となりに関する記述には、まったくヒットしなかった。 生没年さえわからない。 完全に忘れられた存在となってしまったのだろう。 
 
 フィルモグラフィーは残っているので、おじさんの観た映画もその中に見出すことはできる。 そういわれれば、ああそうそう、という感じだ。 
 
 大口を売り物にした怪優だった。 あの浅草オペラの田谷力三の弟子。 本当は田谷朗にしたかったが、師匠に怒られて、苗字の間に 「か」 を入れたという。
 
 顔は与太郎そのもの。 奥眼の大口。 そのうえ何をやらせてもぶち壊す。 アンサンブルが取れない。 しかし、こういうタイプは浅草ですぐに人気が出る。 ガマグチという愛称がついて、仕出しから、ガマグチショーという一座の座長になった。
 
 しかし、身についた芸があったわけではない。 田谷の弟子だから歌も歌う。 声量はあるものの、ドラ声。 ビブラートを効かせるなんてこともできない。 「エノケンは音程もきちんとしていて、それなりに歌はうまかった。 が、高屋は…」 と、色川さんはおっしゃった。
 
 この人の楽屋話が面白い。
 
 「おい、なんだ、この曲、スールブカイジョウって、なんのことだ」
 楽譜に横書きの 『上海ブルース』 を右から読んじゃったのだ。
 もちろん譜面が読めるわけではない。 立ち稽古で、ドラマーのところに行って譜面を覗き込み、
 「いいな、この曲。 メロディがいいよ」
 ドラムの譜面にメロディなんてありゃしない。 
 本人は大真面目なのだが、その日常のおかしさが舞台に出ない。 喜劇界における悲劇。 よくある話ではある。 そのうち赤紙がきて召集され、シンガポールで慰問係をしていたという。
 
 戦後復員したときには、彼の座るべき椅子は、すでに浅草にはなかった。 映画の端役を細々とつとめていた。 本人は鬱病になって自殺未遂をして、新聞を賑わせたのが最後。 程なく病気で亡くなった。
 
 色川さんは、高屋がまだオペラ館の青年部だったころ、つまりご自身が小学生のころに目撃した印象をこう書いておられる。
 
「学校をサボって、ランドセルを背負ったまま、朝の六区の興行街をうろついていた私が、客を呼び込んでいないオペラ館の前で、朝帰りらしい高屋朗を見かけた。 彼は、表方の呼びこみのオジサンと並んで、オペラ館の前の舗道にしゃがみこんでいた。
 女のところに泊まった帰りか、それとも徹夜麻雀のあとか、白粉焼けして妙に青白い顔をして、放心したようにしゃがみこんでいる。 呼びこみのオジサンと向かい合うようにしているのだが、二人はなにもしゃべっていない。
 歓楽の夜のあとの、というか、おもしろおかしい毎日に澱のようにたまってくる屈託、というのか、そんな色が表情に出ていて、それは与太郎風の顔とあまりにかけはなれて見え、オヤ、と見返った覚えがある。」
 
  面白ろうてやがてかなしき役者かな
 
 芭蕉をもじったものだ。 ミヤコ蝶々さんが、生前必ず色紙に添えられた句だという。