天和元年 (1682) 11月28日、江戸本郷の丸山から出た火で、本郷追分にあった八百屋太郎兵衛の家も類焼した。 太郎兵衛は女房と娘のお七を連れて、菩提寺、駒込の円乗寺の門前に仮小屋を建てて避難した。 お七はそこで、円乗寺の寺小姓と知り合い、人目を忍ぶ仲となる。
耳のわき 掻き掻きお七 そばへ寄り
耳のわきを恥ずかしそうに小指の先で掻きながら、もじもじと身体をにじらせて好きな男のそばへ寄って行く。
卵塔は 薮蚊がくうと お七言い
卵塔とは、卵塔場、つまり墓地のことだ。 人目を忍んで夜更けて墓地でえっちしてるから、蚊にくわれるのは当然だ。
ほどなく一家は再建された家に戻ることとなるが、お七は男のことが忘れられない。 その思いがつのって、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと、一途な娘心から我が家に放火をしたと伝えられている。
お七は、天和2年正月27日に逮捕。 天和3年 (1683) 3月29日、鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられた。 井原西鶴の 『好色五人女』 のうち、「恋草からげし八百や物語」 によれば、お七は16歳で火刑になったという。
当時の刑罰は、15歳までは刑を一段引き下げられた。 16歳になるとその恩典はなかった。 年齢を特定しようにも、戸籍自体、いいかげんなものだった。 さて、お七は奉行所のお白州でなんと答えたか。 江戸川柳がこれを伝えている。
正直に お七生えたと 申し上げ
これで奉行は、お七の年齢を16歳と確信した。 今の満年齢でゆくと14歳だ。 このころ、女性に若草がなびく年齢は16歳とされていた。
生えたので お七どうにも 許されず
花も恥らう16の美少女が、裸馬に乗せられて鈴ヶ森の刑場へと引かれてゆく哀艶な光景は、たちまち江戸の大評判となった。 『お七歌祭文』、『八百屋お七恋緋桜』 や、 今日、歌舞伎で上演される 『伊達娘恋緋鹿子・だてむすめこいのひがのこ』 も仕立てられた。
江戸の記録によれば、「桃色の裏がついた白羽二重の小袖。 紫の二重帯をきりりと結び、金蒔絵の鼈甲の櫛を挿し、紅、白粉もあでやかだった」 という。 裕福な八百屋の娘だったらしいから、親たちも娘の死出の晴れ着に心を込めたものと思われる。 「それからの江戸に、ひとしきり其の時の風に似せて、前髪に赤手拭をさげることが流行した」 という。
しかし一方で、お七のイメージをぶち壊すような記録もある。
「お七は太り肉にして 少し疱瘡の跡もありしといへり 色は白かりけれど よき女にてはなかりしと云えり」
これはお七の手習いの師匠の坊さんの手記を伝えたものだ。
さて、おじさんはこれまでラボに篭りきりで理論研究ばかりしてきたので、女性の初潮と陰毛の関係についての知識が皆無だ。 元文年間 (1736-1740) に書かれた 『婦人療治手箱底・ふじんりょうじてばこのそこ』 という本には、「女14になれば月水を見るものなり」 とある。 お七をうたった富本節の 『艶容錦画姿・ことかいなにしきのえすがた』 (文化6年・1823・中村座初演) には、
「11の書初めに 恋という字を書き習い はや13の正月に 月のさわりとなり・・・」 と、早熟な娘としてのお七を扱っている。 江戸期の初潮年齢は、現代ではどう変化しているのだろうか。 最近まで平成が終わったことを知らなかったおじさんには、想像もつかない。 まさか、生まれたての赤ん坊にタンポンを突っ込むこともあるまい。
とりあえず史実はどうあれ、八百屋お七は美女で早熟で奔放なキャラクターで、江戸雀の熱狂を一身に集めるトリック・スターであったことは、紛れもない事実だ。