VAN99HALL。 | おじさんの依存症日記。

おじさんの依存症日記。

何事も、他人に起こっている限り面白い。

イメージ 2
 
 
 
  1974年に生まれて、1978年に死んだ劇場がある。 VAN99HALLという。 その短い期間の中で、劇団つかこうへい事務所、東京ボードビルショー、東京乾電池、夢の遊眠社を世に送った。 鯉の滝登り、登竜門だった。
 
 早稲田大学の6号館、坪内逍遥先生記念演劇博物館の左隣、その屋上にペントハウスのように、劇団 暫 (しばらく) のアトリエはあった。 もともとは、早稲田の自由舞台のアトリエだ。 そこになぜか、慶応出身のつかこうへいが乗り込んできた。 詳しいいきさつは知らない。 早稲田の政経に入学した高校の同級生で、今は物故した三浦洋一から、劇団の地方公演を手伝ってほしい、との連絡を受けた。 思えば、その電話が、地獄のような因果しがらみの始まりだった。 師つかこうへいに対する愛憎は山ほどあるけれど、ここでは書かない。 古き良き思い出、劇団つかこうへい事務所の発祥の地、VAN99HALL、そのベルエポックについて語ろう。
 
 「VAN」 ブランドの創業者である石津謙介さんは、とても遊び心のある方だった。 当時のファッションリーダーとして、アイビールック、ブレザーにボタンダウンのシャツ、レジメンタルタイ、チノパンツ。 しゃれた装いのVANスタイルを確立した。
 
 VAN99HALLは、東京都渋谷区の青山通りにあった。 VANヂャケット本社の1階を演劇用ホールに改装したものだ。 名前の由来は、客席99席、入場料も1人99円としたことから。 満席になっても1万円の収入にもならない。 石津さんは、今でいう企業メセナの感覚で、青山通りの一等地のスペースを、若者達が演劇を公開する場所として提供してくれた。
 
イメージ 1
 
 
 1974年8月、つかこうへいの芝居が、初めてVAN99HALLで上演された。 演目は、『初級革命講座-飛竜伝』。 改訂に次ぐ改訂で、後に読売文学賞を獲得する作品だが、当時はしょぼかった。 役者は、三浦洋一と平田満、岩間多佳子。 以後、つかの作・演出による 『ストリッパー物語』、『熱海殺人事件』 と、次々とホールで上演された。 入場料99円の原則を破り、500円の特別価格。 初めて芝居で、ギャランティーというものを貰った。 観客のアンケートに、「平田さん、駅のごみ箱からスポーツ新聞を拾うのは止めてね」 と書かれた。 マスコミからも注目されてきた。 青山のビルをとり巻く長蛇の列。 つかの芝居が、社会現象となっていた。
 
 それに目を付けたのか、紀伊国屋ホールから誘いがあった。 これ以後、紀伊国屋ホールが劇団の常打ち小屋となった。 新劇の殿堂。 芝居を志す、誰もが憧れる、夢の劇場。
 
 後に、「紀伊国屋演劇賞」 というのを貰った。 団体賞。 別にお金が振る舞われたわけでもなかった。 名誉賞。 豪華なパーティー、いち夜の夢。 生きて往く上では、何の役にも立ちはしない。 まだ創業者、田辺茂一さんが御健在な頃。
 
 劇団はここを拠点とし、渋谷パルコ劇場や、銀座セゾン劇場に遊撃した。 劇団を解散したのは、昭和天皇の崩御の5年くらい前だったか。 おじさんは 「あっそ」 という反応。 どこか、つかの呪縛から離れられることの開放感を感じていた。 同じ夜、風間杜夫さんは、一升ビンを抱えて、夜通し泣き尽くしたという。