国鉄天竜本線の支線:瀬尻ー峰之澤は、1944年に省営自動車(後の国鉄トラック)遠江青谷ー遠江二俣貨物輸送を開始、峰之澤鉱山での鉱石輸送を開始しました。
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●1935年頃の峰之澤鉱山
急峻な傾斜地に半ば無理矢理に作られた峰之澤鉱山の鉱山施設。建物は木造のようだがかなり規模は大きい。
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●蛇の目マークの峰之澤からの運搬船
急峻な傾斜地はそのまま天竜川に続く。そのため戦前の北遠地方は天竜川を船によって往来した。戦前の旅客輸送は飛行艇(プロペラ船)を用いて、貨物輸送は帆船を用いて行っていました。
峰之澤鉱山を所有する久原鉱業は後に日本鉱業でも用いられた蛇の目(o)マークが目印。こちらも積載量は20石(約3㌧)積み。

峰之澤鉱山は、もともと個人所有の小規模な鉱山でしたが1908年に久原鉱業(→日本鉱業→現在の新日鉱ホールディングス)に買収されて規模を拡大、1916年には年産粗鉱量5万㌧を記録。第一次世界大戦後は不況鉱山火災の影響で一時休山しますが昭和に入り再開、労働力は朝鮮人労働者が多く送られ太平洋戦争期には久根鉱山同様、フル操業で採鉱が行われます。1941年には機械選鉱場(月産5,500㌧対応)が完成、1944年には月間粗鉱量8,000㌧対応の選鉱場へと拡長しますが1945年2月、火災が発生選鉱場の大半を消失して休山となりました。

1946年6月に復旧し採鉱再開、復旧当初の月間粗鉱量2,000㌧から1950年には同5,000㌧へ倍以上に増産、1952年は同7,500㌧、1956年11,000㌧へとピークを迎えました📈。
{FEAB42C7-E26C-4A91-9FDF-E6F4BDE2B3C5} 当時の国内炭鉱は高度経済成長を支える重要産業として厚遇され、長崎県の端島(軍艦島)“雲上の楽園"と謳われた松尾鉱山でも知られるように当時の東京都内と並ぶ高水準の生活が出来ると鉱山近くに家族全員で移住してきました。
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●現在の峰之澤鉱山施設跡
1969年に閉山となり、鉱山跡は製材所として一部が再利用された他は硫化銅を含む汚水処理施設があるほか、鉄筋コンクリート造りの社宅の一部は今も残る。長崎県に残る端島(軍艦島)と同じく当時としては最新鋭の住居で峰之澤鉱山には診療所や会館を備え、最大で700名が峰之澤で暮らしていたという。高低差のある街と国道とはケーブルカーで物資の輸送を行っていた。
1956年頃(峰之澤鉱山最盛期)には従業員数700余名を擁し。最新の鉄筋アパート二棟(24戸)木造平家社宅365戸独身者用の寄宿舎(親和寮・清明寮)、山内居住者1,700名峰之澤鉱山周辺て生活を営み、二俣には高校生用の学生寮もありました。
医院峰之澤内科・外科・歯科がありベッド11台レントゲン薬局もありました。
映画は月7〜8回上映があり、厚生会として共同浴場6ケ所ありました。

峰之澤鉱山インクライン

1952年

(竜山村役場広報課)

急峻な秋葉山中腹に築かれた峰之澤の天空都市からは旅客・貨物用のインクラインが作られました。写真手前は旅客、奥に貨物用のアーチ橋が見えます。写真は完成当初の記念撮影カメラハッのようです。そのため遠江青谷バス停から峰之澤までは無料のインクラインがあったため峰之澤線旅客輸送は無かったのです。