今では地域の過疎化の進行とともに大手事業者の手を離れ、今では浜松市自主運行バスとなっている旧遠鉄バス北遠本線。しかしそこは2002年9月まではJR東海バス天竜本線・更には国鉄バスが多くの支線を伴って運行された時期があったり、戦中戦後混乱期は遠州鉄道が運行していた時期もあり興味深い。国鉄は飯田線中部天竜駅と二俣線遠江二俣駅間およそ35kmに国鉄佐久間線を計画。
今では鄙びた山村が点在する北遠地方は天然資源に恵まれ明治以降は資源開発のため大資本が北遠地方に投資されます。
北遠全域より木材、龍山村周辺から採鉱される銅など日本の近代化に欠かせない様々な資源が産出され、更には1889 年に春野町気田に木材の亜統酸パルプ製造を開始、1900年佐久間中部(なかんべ)に王子製紙が新聞用紙工場の操業を開始します。同地は王子製紙が進出するまでは商店は僅か2件、天竜川を往き来する船乗りの村で60〜70戸の戸主全員が船を操り20隻余りの船が活躍していました。王子製紙佐久間工場の最盛期には料理屋十数件、芸者屋が三軒を致えました。
しかし山深い北遠地方はまだまだ陸の孤島であったため製品輸送に苦慮、王子製紙が佐久間町中部で操業していたのは1924 年まででしたが日本が富国強兵に向かう中で北遠地方は林業と鉱山、製紙が町を支え、大都市圏から人口が流入した事もあり北遠地方は一気に近代化が進みました。
しかし飯田線(旧三信鉄道)が中部天竜まで開通するのは1934年12月でそれまでは古来からの天竜川を利用した水運で遠州平野に出、東海道線や海運にて全国に運ばれていましたが天竜川は『あばれ天竜」の異名がつく通り、度々水害をもたらす決して満足のいく交通機関ではありません。陸路交通では渡し舟や徒歩連絡の区間もあり近代化が達成できません。そのため水運に代わってJR飯田線の前身である三信鉄道や僅か数年で廃止された光明電鉄など天竜川沿岸では数多くの鉄道敷設計画が立てられました。
大正時代の久根鉱山
天竜川中流域の旧龍山村には久根・名古尾・鮎釣・峰ノ沢の4つの鉱山(銅山)があり、特に最大規模にあった久根鉱山は江戸時代初期には既に“片和瀬鉱山"の名で記録が残っています。片和瀬鉱山はその後一旦は衰退するものの明治時代に大鉱脈が発見され 1899年古河市兵衛(後の古河鉱業)に買収されてからは近代化が図られます。傍系の足尾銅山では1892年には日本初の鉱山用電気機関車を使用するなど近代化を推進、久根鉱山でも1913年には大滝(水力)発電所が開設、出力135kwと小型でしたが坑内照明をカンテラから自家電力へ、ダイナマイト穴の掘削も手掘りから削岩機に代わり機械化を推進、鉱石粗鉱量は年産2万トン、最盛期の1917年には年産17万トン、使用工夫は1.118名を数えるまでに成長、大正時代には日本一の採鍋量を誇りました。以降も愛媛の別子、茨城の日立に次ぐ銅鉱石を産出していました。
峰ノ沢鉱山の鉱石船
鉱石輸送は帆船により行われ、峰ノ沢鉱山は"蛇の目⭕️"久根鉱山は"山一"が帆に描かれています。天竜川を船で下りた鉱石は中ノ町で陸上げされて大日本軌道浜松支社で運ばれ、後に東海道本線天竜川駅から材木町へ線路が敷かれ発送されました。
天竜運輸貨物ヤード跡
浜松市東区材木町
2021年3月25日
そのため天竜川では大規模な公害問題は起きなかったものの坑道内では過酷な環境下での長時間労働が強いられました。水力発電機などの近代化は採鉱の効率を狙ったもので労働環境は劣悪なままでした。
秋葉ダム湖畔に遺構を遺していた
名古尾鉱山跡
2009年7月11日
昭和不況期には産出量が落ち込み 1931年には年産 1万トンに落ち込みます。しかし太平洋戦争期には銅の帯要は天井知らず、新銅床も発見されたことから月産出含鍋150~200トン程度が1943年には月産400トン、年産11万トンを数えました。当時『山を挙げて火の玉となり大東亜戦争を勝とう」の号令のもと当時700人に満たない工夫と100人の学徒動員が人海戦術で採鉱に当りました。
戦後は復興から高度成長期へ至る旺盛な需要に支えられて1960年度には過去最高となる年産18万㌧を記録しました。
頂点を迎えたものの既に国内の鉱工業は貿易自由化により斜陽の時代を迎えつつあり1970年に久根鉱山は閉山となりました。
日本のエネルギー変換と鉱工業衰退のため炭鉱鉄道も影響で同年には雑別鉄道(雑別炭鉱)、羽幌炭鉱鉄道(羽幌炭鉱)など廃止が続いている。
急峻な斜面に築かれた峰ノ沢鉱山
江戸時代初期の寛文年間(1661年〜1673年)以前の開山と云われかなり歴史が古い。1907年に"鉱山王"久原房之助により経営を再開し大正年間には銅石や鉄鉱石を採掘し龍山4山を支える一大鉱山として発展を遂げるが第一次世界大戦後の不況により失速、1920年4月に火災に遭い一時休山となる。