奥山車庫から、元来た道を戻ります。これからは下り勾配、気持ちも軽やかに坂を降ります。
息子の提案で、富幕川の旧奥山線橋梁と記念撮影。
帰りに竜ヶ岩洞の遠州鉄道奥山線キハ1803の等身大模型を見るために田畑駅跡あたりから少し高い位置の道路を走っていると今度も息子が何かを発見したようです。
朽ち果てた実用自転車を発見しました。
車体は半分土に埋まり、タイヤもひしゃげています。
フレームに"サン號"のエンブレムが。
これは東京都北区田端にあった(東京)秀工舎で製造された実用自転車。秀工舎は1917年創業の機械工場。後年"くろがね"のブランドで自動車製造も手掛けた日本内燃機→日本内燃機製造→日本自動車工業→東急くろがね工業の創業者である蒔田鉄司が最初に創業した個人工場であり自転車の部品製作を手掛けます。蒔田は1918年より白楊社製作所の製作部主任技師として迎え入れられて日本初の量産乗用車"オートモ号"の開発・生産を主導しました。1926年に弟:正次に経営を委ねていた秀工舎に戻り黎明期の自動運搬三輪車の開発に着手、翌27年には販売されました。
チェーンが外れにくく整備し易い独特な構造が好評を得、5ヶ月で20台を売り上げる順調な滑り出しとなりました。現代でこの生産台数では到底事業には成り立ちませんが、当時の秀工舎では従業員は7〜8名の零細企業。エンジンは英国JAP製の空冷SV単気筒(350cc:3ps)を搭載し価格は830〜930円(当時)でした。
蒔田は1928年、当時日本最大の自動車販売会社である日本自動車へ常務取締役として迎え入れられて秀工舎からは離れてしまうのでますが、引き続き自転車の製造販売に邁進します。
1970年代までは実用車のほか婦人車も作られていましたが1980年代には廃業してしまったようです。
蒔田が起業した日本内燃機→東急くろがね自動車は秀工舎より早く1962年1月、経営が行き詰まり廃業してしまいました。
国産初の量産化乗用車"オートモ号"を作った蒔田の起源である秀工舎の自転車は堅牢かつ細部まで手の入った実用自転車。フェンダーに押型による意匠など朽ち果ててもその輝かしい自転車の匠の片鱗を垣間見る事ができる、素敵な廃自転車でした。