1941年8月に国のガソリン配給廃止となり太平洋戦争が開戦、浜松市営自動車も苦しい時代へと入ります。路線数は開業時と変わりません(5路線)でしたが車両数は1937年度18輌から1943年度26輌、利用者も同期間に115万人から275万人と2.4倍に伸びています。
1943年の潤滑油配給規制により全路線の運行回数減回を実施する一方で軍需工場への輸送のため葵町線(飛行部隊及び航空分廠関係者の特別輸送)、宮竹線(中島飛行機浜松製作所従業員の臨時輸送)を新設する一方で決戦非常措置として循環路線の短縮を行い走行距離短縮を図りました。
佐鳴湖線は夏季3ヶ月のみの運行でしたが日祝日運行、雨天運休となります。
浜松大空襲(1945年6月18日)以降は葵町線・宮竹線・飛行学校線を除く全路線の運行休止となります。
佐鳴湖線は休止したまま終戦を迎えます。先述のとおり当時の浜松市では鴨江町以遠は郊外であり佐鳴湖周辺は湿地帯を含む未開発地であり今では住宅地である佐鳴湖東岸の丘陵地帯も一面の里山であり、西廻線(一部区間のみ)が1945年12月、東廻線(一部区間のみ)・北廻線(一部区間のみ)が1947年8月、西廻線・東廻線・北廻線の循環運転が復活したあとも佐鳴湖線は不要不急の路線として休止したままでした。
現在の鴨江三丁目交差点
google earthより
周囲の面影は無いが、道路の線形は驚くほど変わっていない。当時の鴨江三丁目から根上り松あたりは田畑が広がる長閑な場所だった
google earthより
確かにこの写真を観ると人家は疎らであり運休も致し方なく思えますね😅。
佐鳴湖線が復活したのは1949年7月のことでした。戦後の浜松市営自動車→浜松市交通部については以前の記事と重複するため過去ブログをご覧ください。
帝国車体架装の日野センターアンダーフロアエンジン車で正面だけ見るとブルーリボンのオーナメントが無ければリヤエンジン車(日野RB系)と同じ。1965年は日野BD・BN・BT系を導入した最終年で金沢産業架装車6月に日野BT71(製品番号10671)、9月に日野BT51(製品番号10974)の各1輌が導入された。後述の251号車とともにワンマン車で赤帯を巻いている。
佐鳴湖線は1951年4月に元城町ー亀山町間を秋葉坂経由を元城経由に変更、浜松市役所への利便性を向上させます。また戦前から季節運行だった同線は以降通年運行となります。1955年5月には和合町寸田ヶ谷まで延長しました。
1954年4月、市役所庁舎完成に伴い鴨江市役所線
が開業(浜松駅ー鴨江町ー広沢町ー亀山町ー動物園ー元城町ー東田町ー浜松駅)します。1956年11月、鴨江線(浜松駅ー鴨江町ー名残町ー浜松駅)が開業します。
1954年から57年にかけて54.3.2:鴨江市役所線(後の市役所南廻線)・元城追分線(後の市役所北廻線)・54.4.1:和合西山線・55.2.13:米津線・55.3.10:五島線・曳馬線・55.3.15:住吉線・56.11.25:蜆塚線・上西線・57.1.25:和地山線と沢山のバス路線が開業しました。
広小路通りを走る浜松市バス
1957年
まだ交通量が疎らな浜松市のメインストリートを行くキャブオーバーバス。"歓第12回国体(静岡国体)迎"の横断幕があり1957年春から夏の撮影と分かる。キャプオーバーバスは浜松市内でも遠州鉄道のほかヤマハ発動機や日本楽器などの企業従業員輸送用に1950年から1970年にかけて数多く見られた。
浜松市営128
靜2あ・718
トヨタFB60(1957年)
和地山車庫
創業以来下池川町にあった浜松市営バスの車庫は1956年に、和地山へ移転。その時に導入されたトヨタ製ボンネットバスで真新しい修理工場をバックに記念撮影。車体架装は新三菱重工で車体の塗り分けも従来より簡略化されている。