鳳来寺鉄道の終点:三河川合駅前の
東三自動車のバス
愛知3.175
フォードA型
尾三自動車より東側のエリアには東三自動車は三河川合駅前から北設・佐久間方面への路線バスの運行を行いました。
写真のクルマはフォードA型。横浜に工場を作り純国産自動車として大正〜昭和初期にかけてポピュラーな存在でした。写真は一見すると乗用車ですが、正面窓に『乗合 中部行き』と小さく行先を表示され、未整備の山間の小径を走りました。
東三自動車時刻表
1925年12月改正
当時は長篠(後の飯田線大海)から玖老勢へ出、その先は田口鉄道(→豊橋鉄道田口線)に沿って海老線(長篠ー海老)と田口線(長篠ー海老ー田口)、津具線(長篠ー海老ー田口ー津具)と、三河川合(鳳来寺鉄道)から三信鉄道(→飯田線)に沿っての本郷線(三河川合ー本郷(東栄町本郷)・中部線(三河川合ー下川合)の5路線がありました。当時は、
海老線 1日8往復
田口線 1日2往復
津具線 1日1往復
本郷線 1日4往復
中部線 1日4往復
現在からすれば山間を走るコミュニティバス程度の輸送量・便数ですが、自動車による公共交通機関の開通は山奥深いこの地域に光明を差し込んだものでした。
海老線 (長篠ー海老) 1円00銭
田口線 (長篠ー田口) 2円50銭
津具線 (長篠ー津具) 3円80銭
本郷線 (川合ー本郷) 1円50銭
中部線 (川合ー下川合)2円00銭
因みに大正14年度の物価※は
白米(10kg) = 3円20銭
ビール(大瓶1本) = 50銭
コーヒー(1杯) = 5銭
大学初任給(月給) 50円
巡査初任給(月給) 45円
大工手間賃(日給) 3円50銭
日雇い労働者(日給) 2円10銭
このような相場のなか、高価な運賃設定のため、主な利用者は富裕層でありバス開通後も庶民は歩いて東三河山間部を行き来しました。
※当時の物価 明治~平成 値段史 参照
豊橋方面からのバスの拠点:新城駅
昭和初期:名鉄博物館所蔵
1897年、豊川鉄道が豊橋ー豊川間の開通を皮切りに1898年4月には新城まで開通、1900年9月に長篠(現在の大海)まで延伸するまでは終点となっていました。長篠から三河川合までは鳳来寺鉄道、三河川合ー天竜峡駅までは三信鉄道により鉄路は結ばれ、架線電圧の異なる(伊那電気鉄道のみ直流1200V)4社線でしたが、複電圧車の無い時代だったので制御車※のみ直通させ、電動車を付け替える手法を取っていました。
三信鉄道白神駅付近の工事現場
三信鉄道全通記念写真帖より
急峻な山奥に鉄路を敷いた三信鉄道は1929年8月に着手します。しかし三信鉄道沿線は飯田線の城西ー向市場間にある第6水窪川橋梁(通称:渡らずの橋)で知られるように中央構造線(フォッサマグナ)に沿っての路線延長は難工事の連続で、世界恐慌を発端に資金難に陥り工事延長の申請を繰り返す事態にも陥ったものの1932年10月より天竜峡ー門島間開通、続いて1933年12月には三河川合ー三輪村(現在の東栄)まで開通、双方向より順次線路を延長、1937年8月に大嵐ー小和田駅が開通して三河川合から天竜峡まで、しいては豊橋ー辰野間が全通しました。
開業まもない佐久間駅
1934年に佐久間駅として開業した中部天竜駅は翌年現駅名に改称した。しかし呼び方はなかっぺてんりゅうだった。
しかし三信鉄道には全通後も、巨額の建設費のため運賃が高くなってしまったために需要が伸びず、不況も重なって経営は好転しませんでした。1943年8年に飯田線のもととなる4社線は国有化されて国鉄飯田線となりました。
※伊那電気鉄道サ400形→サハニ7900形→国鉄サハニフ403→弘南鉄道クハニ1272
中部線(三河川合ー下川合ー中部)の時刻表をです。
がありました。1925年時点に比べて1日4往復から6往復となりました。
蛇足ですが1925年時点では下川合まででしたが、道路整備も完了し中部まで到着しました。
中部は佐久間町の中心街で、明治時代から王子製紙中部工場が操業を開始し、天竜川を下ると久根鉱山や峰之澤鉱山も操業中であり、高度成長期までは奥三河〜北縁地域は鉱業や製紙業で賑わっていました。
当初は長篠から玖老勢へ出、その先は田口鉄道(→豊橋鉄道田口線)に沿って海老線(長篠ー海老)と田口線(長篠ー海老ー田口)、津具線(長篠ー海老ー田口ー津具)と奥三河を駆け抜け、川合から新野の途中:坂宇場まで延長されています。三河川合(鳳来寺鉄道)から三信鉄道(→飯田線)に沿っての本郷線(三河川合ー本郷ー坂宇場、遂に県境新野に至ります。
海老線 1日8往復
田口線 1日2往復
津具線 1日1往復
本郷線 1日4往復