JR四国
キハ58-293+キハ65-34
阿波池田
2005年7月27日

国鉄の電車や気動車はJRとなってから、各地の会社や路線の塗装を纏うようになりました。無煙化推進のため早くから気動車が活躍した四国は気動車王国と呼ばれて最盛期には約150輌のキハ58系が四国島内の急行列車から普通列車まで幅広く活躍しました。
予讃線では1時間ヘッドで気動車急行が運転され、その中心がキハ58でした。また、国鉄四国総局管内のキハ58系は暖地であるため冷房化も全国に先駆けて行われ1972年度に完了しており、フリークエントサービスと併せて使い易く快適な旅路を提供していました。

今回撮影したキハ58-293キハ65-34。キハ58は後にJR四国最後のキハ58として脚光をることになりますが、阿波池田で撮影した時は『あっ、国鉄色のキハ58じゃんニコニコと、単にラッキー流れ星なくらいにしか観ていませんでした。
今回のブログを書くにあたり、この年(2005年)にキハ65-34とともに国鉄急行色に塗り替えられた事を改めて知った次第であります。

キハ58-293号車は1963年4月に日本車輌製造で落成し千葉気動車区新製配置されました。
しかし千葉は僅か半年で郡山へ配置転換となり、1964年に盛岡、1965年に青森に移動します。
この間にヨンサントウ(1968年10月ダイヤ改正)があり、東北本線の全線電化や急行・特急列車大増発があり、キハ58-293はその最前線で活躍したうちの1輌でした。1971年に盛岡、1974年には秋田へと、まさに"みちのくひとり旅"な生涯を辿ります。1982年11月、山形へ移動ののち1985年3月、遥々四国高松へ移動となりました。

四国へ移動したキハ58はセミクロスシートに改造され、トイレと洗面所も撤去されています。デッキも撤去されていますが踏み段の幅の分だけは残っているので、外観は変化はありません。

JR四国発足直前の1987年3月に松山へ移動しました。松山では土讃線の北部(多度津~阿波池田)でも活躍しています。

一方、キハ65-34は1970年6月に日本車輌製造で落成し高松機関区へ新製配置されました。
流転の生涯を辿ったキハ58-293とは対照的に、国鉄時代は高松を離れず、1990年11月に松山へ移動し、廃車まで松山で過ごしました。キハ65車内は原型のクロスシートのままで、デッキも残っています。

2005年3月、キハ58-293キハ65-34は編成を組み、旧国鉄急行色に塗り替えられ、イベント用に使われるようになりました。
リバイバル急行は人気を博しましたが、老朽化も進行したため2009年に現役を引退します。

引退直前になるとリバイバル急行運転に備えて「ヒゲ」塗装が施されました。最後はJR四国多度津工場まつりのシャトル列車としても活躍しました。
2008年11月にさよなら運転のあと、松山運転所に留置されましたが、12月にキハ47-177を後部に連結して多度津工場へ回送されました.

多度津工場では四国色キハ28-2002ととも保管されました。多度津工場公開日は展示車両という案内は無く、見えるところに留置されていたという状況で寂しい最晩年を送りましたが2018年6月に解体処分の憂い目に遭い、姿を消しました。


一緒に連結されていたキハ65-34は、幸いにも四国鉄道文化館に移動し屋内で静態保存されています。