1957年、名古屋市初の地下鉄1号線(現在の東山線)が名古屋駅ー栄町(現・栄)間2.4kmが開業、その際に投入されたのが100型電車です。
竣工当時の名古屋市交通局100型
日本車輌製造本店工場(名古屋市交通局絵葉書より)
ボディマウント構造・モノコック車体を採用し全長15.0 m、幅2.5 mの小型の車体が特徴です。
◆名古屋市交通局 100型◆
寸法(長×幅×高)
15,580 × 2,508 × 3,360(㎜)
定員 110名(座席44+立席66名)
台車型式 KH-10A(日立製)
ND-107(日本車輌製)
制御器 MMC-LBM4型
発電制動付自動総括制御装置
制動装置 SMEE型
空気ブレーキ並びに電気ブレーキ
電動機 直流直巻電動機
出力:40kw × 4(基)
歯車比 43:6
車輌重量 22,400㎏
架線電圧 600ボルト
軌間 1,435㎜
代価 1,500万円(1輌・当時)
小型の車体は1号線(東山線)の建設費の低減を図ったため小型の断面で建設された事に伴い100型も全長15.5m、幅2.5mと小型の車体で製作されました。そのため室内高は2.2mしかありません。
室内照明が天井の両隅に設置され荷棚はありません。これは室内高が低い事もありましたが製造当時の名古屋市交通局1号線の区間が「乗車距離が短い」などの理由から省略されています。
名古屋市交通局は床下機器には静寂性を重視しており弾性車輪が採用されています。
名古屋市交通局2000型
名古屋市電最後の新製車輌だった2000型は和製PCCカーと呼ばれるようにスカートに覆われたスマートな外観とともに静粛性が高い弾性台車(日立KL-8)を履き電動機は直角カルダン(HS503Erb)、エアブレーキは外締め式ドラムブレーキを採用、車内床はロンリューム敷きで車内はアイボリーに塗られてサッシ窓の採用も相まって明るく軽快な車内となっている。
日立製作所笠戸事業所から到着した
先行試作車として製造された101号は日立製作所笠戸事業所で製作されて先ず、下之一色線での試験運行が行われました。集電方式が異なりますが、わざわざ第三軌条を敷設しての試験運転でした。試運転時には前面方向幕が設置されていましたが営業運転開始時に撤去され、量産車と同様に貫通扉に方向板が設置されました。
1960年〜1969年まで暫定の車庫
車体塗装は画家の杉本健吉により選定された菜種色(黄色、ウィンザーイエロー)で市民からは黄電と呼ばれました。その後名城線は黄色い車体にラインカラーである紫色の帯を巻くなど名古屋市営地下鉄の鋼製車輌はその後も黄色い車体となりますが、やがて黄色が東山線のラインカラーと広く認識されるようになりました。1963年までに100型は40輌が投入されました。
その後、路線の延長とともに名古屋市の地下の大動脈としてその機能を果たすにあたり車輌の増備も図られる事となります。先ず、3輌編成化を図る事となり中間車500型が1963年に20輌製造されます。簡単に言えば100型から運転台を撤去(簡易運転台は設置されていた)した構造の中間車でした。
当初奇数の車番のみが製造され、偶数番号の車両は後の4両編成化の際に製造される予定でしたが実際には設計の異なる700型製造に計画変更したため奇数車のみの存在となりました。
1964年には200型(制御電動車)・600型(中間電動車)が各4輌が登場します。ボディーマウントは過熱しやすく保守点検が不便など構造上難点が多いため通常のボックスマウント構造・セミモノコック車体で、通風装置もモニター屋根から箱型ベンチレータに変更されました。また主電動機出力は50 kW×4に増強され、駆動方式もWN平行カルダン駆動となり名城線用の1000型のベースになっています。1965年から100・200形の中間増備車として700型が64輌製造されています。
通風装置は箱型ベンチレータからモニター屋根に戻りましたが床下はボックスマウント構造となりました。
初期車輌(〜709号)までは片開き扉・簡易運転台付・主電動機出力は50kwでしたが、後期車輌(710号〜)は名古屋市交通局1000型(名城線用)をベースとした両開き扉で簡易運転台は廃され、主電動機出力は55 kWと改良されています。
107ー108が廃車後藤ヶ丘工場で保管されていましたが、レトロ電車館が開館に伴い2000年より静態保存、一般公開されています。
レトロ電車館に併設されている名古屋市交通局日進工場内に135号車の前頭部が保管されており、イベント時に公開されます。その他、市営交通資料センターには100形の運転台が展示されており、実際に動かすことができます。