京都と奈良を結ぶ近鉄特急は京奈特急と呼ばれ、日中でも京都→近鉄奈良・橿原神宮へ毎時3本〜運行されており手軽に利用できるために観光・ビジネスから通勤通学まで幅広く利用されています。
名古屋ー大阪を結ぶ名阪特急、大阪ー伊勢志摩を結ぶ阪伊特急、名古屋ー伊勢志摩を結ぶ名伊特急、京都ー伊勢志摩を結ぶ京伊特急、京都ー橿原を結ぶ京橿特急、京都ー奈良を結ぶ京奈特急、大阪ー奈良を結ぶ阪奈特急、大阪ー吉野を結ぶ吉野特急があり、1日約400本もの特急列車が近鉄線内を走っています。
戦後、名古屋線はまだ狭軌(1067㎜軌間)であったり、生駒線のトンネル限界が狭かったりと線路規格や車輌が様々であったが順次整備され、伊勢湾台風で甚大な被害を被ったものの、復旧を機に一挙に名阪間の標準軌に統一し、以降はビスタカーや団体専用列車など独自の専用車輌を導入、1963年までには特急が3系統、78本まで増発されました。
しかし、1964年10月の東海道新幹線開業を転機に運行体系を抜本的に見直す必要に迫られ、特に新幹線と運行区間が重なる名阪間はスピードや利用頻度において劣勢となることから近鉄は創始以来の名阪間特急を主体として営業展開から新幹線のスピードを利用する方策に転換します。
つまり、新幹線の高速輸送によって東京から近畿・中部地区の観光地まで概ね3時間の範囲に収まることを逆手に取り、関東から来た客を名古屋ないし京都乗換えのうえ自社線内の観光地に誘致して新たな需要を喚起することになりました。
この戦略の転換によって都市と観光地を結ぶ系統が相次いで新設され、主要幹線を特急が縦横に駆け回り、各接続駅で特急列車同士の乗継に配慮したダイヤを組むことにより、大都市からの遠隔地であった伊勢志摩方面の路線の観光需要を興しています。
事実、近鉄沿線には大都市圏並の輸送量を持つ路線の割合は全体の30%に過ぎず、残りの70%は閑散路線で構成されており、三重県内の一部路線では本体から切り離された路線もあります。
閑散路線を経由する形で沿線に散らばる都市・観光地を特急列車で結び、旅客流動を創出して採算を得てます。
そのために特急専用車輌を用いて、特急料金を徴収して長大路線の維持管理運営を行なう原資としています。そのために高品質・高速度の商品(車輌サービス)を用意する必要があり、そのために二階建電車(ビスタカー)を登場させるに至ったのです。
以降も高品質な特急列車を用意し、現在の”しまかぜ”登場に繋がって行くのです。これは小田急電鉄と同じ手法で”ロマンスカー”を登場させ、箱根や江ノ島の観光開発に寄与した点にも似ています。