光明電鉄を語るうえで北遠地域の鉱工業を語らなくてはいけません。今回は明治〜昭和にかけての北遠地域に栄えた近代産業についてお話しします。

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●久根鉱山と出発する久根鉱山の運搬船
明治末期の撮影だが既に大規模な鉱山施設が操業し、手前にはトロッコ用と思しきレールが見える。
古河鉱業の船にはヤマイチのマークが入る『ひとヤマ上げる』の意味を込めている。この後、古河鉱業は文字通り全国の鉱山の近代化に貢献した。積載量は20石(約3㌧)でこれで殆どの鉱石を輸送した。

北遠地域は天然資源に恵まれ明治以降は資源開発のため大資本がこの地域に投資され、全域の木材や龍山村周辺から産出される銅、また諏訪湖に端を発する天竜川は豊富で水涸れが無い安定的な水源であることに注目され、1889年に春野町気田に木材の亜硫酸パルプ製造を開始、1900年には王子製紙が佐久間中部(なかんべ=現在のJR飯田線中部天竜駅付近)に新聞用紙工場の操業を開始します。当時はまだ陸の孤島であったので製品輸送に問題であり王子製紙は1924年には佐久間中部の向上を閉鎖してしまいますがこの時代の北遠地域は林業・鉱業・製紙業がこの地域の発展・近代化を推し進め、大都市圏から一気に人口流入が起こります。
操業前の中部には商店は僅か2軒、主たる産業は天竜川を往き来する船乗りの村で60〜70戸の戸主全員が船を操り20隻余りの船が活躍していました。王子製紙が佐久間へ進出してからは料理屋十数軒、芸者屋を3軒を数えるに到りました。


しかし鳳来寺鉄道(現在のJR飯田線の一部)が中部天竜まで開通したのは1934年12月でそれまでは古来からの天竜川・気田川を利用した水運が主流で東海道本線や海運にて全国に運ばれていました。
しかし天竜川は『あばれ天竜』の異名通りたびたび水害をもたらし決して満足のいく交通機関ではありませんでした。水量が豊富な天竜川は陸路の開発を困難にし、昭和初期まで渡し舟や徒歩連絡の区間もあり水運に変わるべく鉄道開通が望まれていました。

●久根鉱山

天竜川中流の鉱山(久根・名古尾・峰之澤・鮎釣)の中で最大の久根鉱山は江戸時代初期に”片和瀬鉱山”の名で記録が残り、明治時代に入り大鉱脈が発見され1899年古河市兵衛(→古河鉱業)に買収されてからは急速に近代化が図られ発展を遂げます。
1913年には大滝水力発電所を開設、出力135kwと低出力ですが坑内照明をカンテラから電灯に変えました。また、ダイナマイト穴の掘削も手彫りから削岩機に変わり機械化を推進しました。傍系の足尾銅山では1892年に日本初の鉱山用電気機関車を導入しており古河鉱業は各地で鉱工業産業の近代化を進めていたことがわかります。

久根鉱山の鉱石粗鉱量は概ね年産2万㌧、最盛期の1917年には年産17万㌧、使用工夫は1,118名を数えました。

銅山といって思い出すのは傍系の足尾銅山で発生した足尾銅山事件。大正年間には日本一の採銅量を誇った久根鉱山で大規模な公害事件が発生していなかったのはまさに足尾銅山の鉱毒事件(工場の梅園や排水が渡良瀬川下流一体を汚染し深刻な環境問題を引き起こした。ちなみに足尾銅山所有も古河鉱業であった)の反省から天竜川沿岸で採掘された鉱石はこの地で精錬は行わず鉱石のまま各地へ運び出したからと言われています。
因みに鉱山の近代化は採鉱の効率化を図ったもので坑道内では過酷な長時間労働を強いられました。



昭和不況期には出炭が落ち込み1931年には年産1万㌧に落ち込みます。しかし太平洋戦争期には銅の需要は天井知らず、新鉱脈もみつかり月産出含銅150〜200㌧程度が1943年には月産400㌧、年産11万㌧を記録。
当時は『山を挙げて火の玉となり大東亜戦争を勝とう』の号令の下、当時700人に満たない工夫と100余名の学徒動員がまさに人海戦術による採鉱を行いました。


戦後は復興と高度成長期に支えられ1960年には過去最高の年産18万㌧を記録するも国内の鉱工業は貿易自由化とエネルギー政策の転換により一気に失速、久根鉱山は最盛期の僅か10年後の1970年に閉山となりました。久根や各地の鉱山街は一気に寂れてしまいました。
但し現在でも鉱山跡から流れ出る硫化銅を含む汚水処理施設は稼働中です。


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昭和20年代の久根鉱山
戦後、復興・高度成長期の日本を支えた久根鉱山。この地の出身者のなかで後に栃木作新学院を出た江川卓がいる。鉱山技師であった父親の仕事の関係で少年時代をこの地で過ごしていた。小学生時代、父の真似をして天竜川の対岸に向かって石を投げたところ、大人の飛距離に遜色なく、以降天竜川で石を遠投することを日課としていた。これにより地肩が鍛えられることとなったという。

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現在の久根鉱山跡
コバルトブルーの淵が印象的だが、かつてはここから鉱石を運ぶ船がひっきりなしに出て行った。一時期は昼夜見境い無く鉱山が稼働していた時代もあったか…


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現在の久根の街並み
かつては飲食店や遊廓もあり活況を呈していたが今では主たる産業は林業で高齢化の進む典型的な日本の過疎地となってしまった。

●峰之澤鉱山

峰之澤鉱山は、もともと個人所有の小規模な鉱山でしたが1908年に久原鉱業(→日本鉱業→現在の新日鉱ホールディングス)に買収されて規模を拡大、1916年には年産粗鉱量5万㌧を記録し使用工夫は774名です。
第一次世界大戦後は不況と鉱山火災の影響で一時休山するが昭和に入り再開し、特に朝鮮人労働者が多く送られました。太平洋戦争期には久根鉱山同様、フル操業で採鉱が行われます。1944年には省営自動車(後の国鉄トラック)が遠江青谷ー遠江二俣間に貨物輸送を開始して鉱石輸送を支えました。
以降は久根鉱山同様に国土の復興・成長と共に発展、1956年に最盛期を迎えますが1969年に閉山となりました。


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●蛇の目マークの峰之澤からの運搬船
峰之澤鉱山を所有する久原鉱業は後に日本鉱業でも用いられた蛇の目(o)マークが目印です。こちらも積載量は20石(約3㌧)積み。



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●1935年頃の峰之澤鉱山
急峻な傾斜地に半ば無理矢理に作られた峰之澤鉱山の鉱山施設。建物は木造のようだがかなり規模は大きい。


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●現在の峰之澤鉱山施設跡
1969年に閉山となり、鉱山跡は製材所として一部が再利用された他は硫化銅を含む汚水処理施設があるほか、鉄筋コンクリート造りの社宅の一部は今も残る。長崎県に残る端島(軍艦島)と同じく当時としては最新鋭の住居で峰之澤鉱山には診療所や会館を備え、最大で700名が峰之澤で暮らしていたという。高低差のある街と国道とはケーブルカーで物資の輸送を行っていた。
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峰之澤鉱口のバス停
戦中の1944年に貨物輸送から始まった国鉄峰之澤線は鉱山の閉山直前に1967年から旅客輸送が始まり1985年頃に廃止された。バス停はその後スクールバスで再活用されたようで、千代バス停とともにそのまま残っている。
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現在の名古尾鉱山跡

かつては写真上部に道を迂回して写真中央に坑道がありました。