090613 スタソンイズムstage1 「ゲゲゲのげ-逢魔が時に揺れるブランコ-」
鑑賞後に見せてもらったパンフレットで初めて知った情報があったり、原作を読んだ方の日記を読むと、劇のみでは分からない、或いはさっと流してしまい、気づかない様になっている重要なファクターがあったりするらしいのですが…個人的には「消費」されるものであるのならば、対象は「消費者」に委ねられて然るべきなので、作り手の意思を読み取ろうとする努力はするが、不可解な箇所が妨げになる様であれば、一旦、放置して進めてもいいと考えています。まして、演劇という多数の視座と手によって解体されながら表現される形態においては、講じてみたところで浪費というものでしょう。
と、言い訳が長くなりましたがw私自身、一度しか観劇していないし、パンフレットも買わず、原作も未読という状態での感想となります。
完全版は構造論や時代背景を考慮しながら、解題するT2氏に委ねる事にして、今回は個人的な感想とその導入部分に留めたいと思います。
(とりあえず、レポ書かないと、次々と他の方のイベント・レポが滞るという裏事情もありますw)
さて、細かい箇所は失念しているのですが、劇中何度も繰り返される言葉があります。
「逆もまた真なり」
論理学上、言語学上の解釈で若干の誤差が生じる様にも思えますが、表層で背反する二点の事象が深層において同一のものである。或いは、同一視点上で、対象となる二点の立場が入れ替わっても、矛盾が生じない。その辺りの解釈程度でいいと思います。背景無視して、言語のみで戯れるとキリがないと思われるので。
何にせよ、この言葉が機能するという事は、二点の比較対象があるという事です。 人間と妖怪、現在と過去(戦時と戦後?)、加害者と被害者、生者と死者、肯と非。ヒーローとアンチ・ヒーロー。都会と田舎。こちら側とあちら側。
また、あからさまに配置されている、「境界」の隠喩もあります。
時間としての逢魔が時、キャラクターとしての鬼太郎、場所としての林。などなど。
枇杷も伝承として、「人のうめき声を聞いて育つ」といった反面、薬用の高さから重宝されています。マキオが「酸っぱく」感じ、一葉が「甘く」感じた二面性もその辺りが由来かも知れません。橘の実や桃なら民話・神話の中から幾らでも逸話を引き出せるのですが、枇杷に関しては思いつきません。果実としてモデルの単純化を行ってもいいのかも知れませんね。
あと、ブランコは「記憶の媒介」か「反復」と思っていったんですが、マキオの心象からすると「喪失」の象徴でもある様な気がします。
基本はこの辺りからのアプローチから入るのがいいかも知れません。
個人的な印象としては、「境界」によって二分された「事象」の位置が逆転する時の世界の有り様を描いたのではないかと思っています。冒頭の「永遠の遠泳」といった言葉遊びが象徴してる様に、「言の葉」による世界の意味付けが、劇中で活き活きと行われていきますが・・・さて、ここまで徹底して対極しあうものの立場を問うのなら、演者と鑑賞者もその対象にされて然るべきだと思われますが…。
と、言い訳が長くなりましたがw私自身、一度しか観劇していないし、パンフレットも買わず、原作も未読という状態での感想となります。
完全版は構造論や時代背景を考慮しながら、解題するT2氏に委ねる事にして、今回は個人的な感想とその導入部分に留めたいと思います。
(とりあえず、レポ書かないと、次々と他の方のイベント・レポが滞るという裏事情もありますw)
さて、細かい箇所は失念しているのですが、劇中何度も繰り返される言葉があります。
「逆もまた真なり」
論理学上、言語学上の解釈で若干の誤差が生じる様にも思えますが、表層で背反する二点の事象が深層において同一のものである。或いは、同一視点上で、対象となる二点の立場が入れ替わっても、矛盾が生じない。その辺りの解釈程度でいいと思います。背景無視して、言語のみで戯れるとキリがないと思われるので。
何にせよ、この言葉が機能するという事は、二点の比較対象があるという事です。 人間と妖怪、現在と過去(戦時と戦後?)、加害者と被害者、生者と死者、肯と非。ヒーローとアンチ・ヒーロー。都会と田舎。こちら側とあちら側。
また、あからさまに配置されている、「境界」の隠喩もあります。
時間としての逢魔が時、キャラクターとしての鬼太郎、場所としての林。などなど。
枇杷も伝承として、「人のうめき声を聞いて育つ」といった反面、薬用の高さから重宝されています。マキオが「酸っぱく」感じ、一葉が「甘く」感じた二面性もその辺りが由来かも知れません。橘の実や桃なら民話・神話の中から幾らでも逸話を引き出せるのですが、枇杷に関しては思いつきません。果実としてモデルの単純化を行ってもいいのかも知れませんね。
あと、ブランコは「記憶の媒介」か「反復」と思っていったんですが、マキオの心象からすると「喪失」の象徴でもある様な気がします。
基本はこの辺りからのアプローチから入るのがいいかも知れません。
個人的な印象としては、「境界」によって二分された「事象」の位置が逆転する時の世界の有り様を描いたのではないかと思っています。冒頭の「永遠の遠泳」といった言葉遊びが象徴してる様に、「言の葉」による世界の意味付けが、劇中で活き活きと行われていきますが・・・さて、ここまで徹底して対極しあうものの立場を問うのなら、演者と鑑賞者もその対象にされて然るべきだと思われますが…。