以前、雨トーークで紹介されていた本です。
筒井康隆といえば、いまの若者にとっては『時をかける少女』などで有名でしょうか。
本作ははたして、SFと呼べばよいのか、どうか。作中では虚構内虚構、というふうに呼んでいます。
主人公の佐治は作家で、常に斬新なネタを模索しています。
友人の評論家、津田からの提案で、あるテーマで小説を書くことになります。つまり小説の中で小説を書く、というメタフィクションな設定なわけです。
そのテーマとは「世界から一文字ずつ言葉がなくなっていったらどうなるか」というもの。
第一章の冒頭で、すでに「あ」と「ぱ」が消えていることになっています。この作品の面白いところは、小説の中で佐治が書いているという作中作の世界の中だけでなく、実際にいま私が読んでいる、この『残像に口紅を』の中からもその文字が消えていく、というところです。
というか、『残像に口紅を』自体が、主人公の佐治がいままさに書いている小説そのものなのです。いったいどう読んだら良いのか、混乱してきます。
さて、さっそく「あ」と「ぱ」が消えたので、この小説には、今後、「あ」と「ぱ」は一切出てきません。とうぜん、「あ」と「ぱ」を含む名詞も出てきません。
「朝」という単語も、「パン」という単語も消えているのです。登場人物たちは、「朝」を「午前」と表現するようになります。「パン」は存在そのものが消えてしまい、朝食には白米を食べる他ありません。パン屋も商店街から姿を消しました。「パンツ」も消えることになりますが、この場合は「下着」で代用することができます。
そして「朝」と同様に、「愛」も無くなってしまいました。
もうひとつ、この作品の面白いところが、主人公の佐治だけが「言葉が消えていく」ということを理解しているところです。作者なのですから当然のことですが、しかし消えた言葉が何なのかは自覚できません。
言葉が消え、単語が消えたとき、「何かが消えたらしいが、それが何かわからない」という具合に、単語とともにその記憶も消えてしまうのです。
ある朝、やけに静かなことに佐治は気づきます。はて、この違和感は何だろう。電車の音や、車の走る音は聞こえている。それなのに、いったいなぜ、静かだ、と感じるのだろう。
「そうか。どうやら、ある生き物が消えてしまったらしい」
佐治の近所には、いつもうるさく吠えている「犬」がいました。
「きっとその生き物の名前を示す文字のいずれかが消えたのだ」
「い」が消えれば「犬」も消えます。
その生き物がどういう形をしていたか思い出せないけれど、佐治はなんとなく切ない気持ちになるのでした。
さらに、この小説を書いているのは主人公の佐治であるので、例えばどこかへ出掛けるシーンでは、道中の描写が面倒だから、もう着いたことにしよう、ということで「着いた」なんて芸当もやってのけます。虚構内虚構だから、なんでもありです。
物語序盤で、佐治の娘たちが次々に消えてゆきます。娘たちの名前の何文字かが消えたのです。
そしてついに妻の名前も消えてしまいますが、「妻」という言葉のみによって、その存在が残像のようにうっすらと残ります。
私の妻は、妻という概念だけの、残像のような存在になっても、変わらず私を愛してくれるのだろうか。
こんな風に次々と言葉が消え、物や人が消えていきます。
そして最後には・・・
この作品は、たいへん実験的な作品です。
内容に関しては賛否両論ですが、これは物語の面白さよりも、使える文字がどんどん減っていくなかで、それでも小説を描き続けるという作者の執筆行為そのものを楽しむ作品です。
使える文字が減っていきますから、物語が進むにつれ、文章はだんだんと拙く、あるいは回りくどい言い回しになっていきます。
その単語を使わずにある名詞を表現する、という試みは、まさにゲームです。
そこがこの小説の面白いところであり、内容自体の面白さはどうでも良い、と言っていいでしょう。
文字が減っていく以外、とくに事件も冒険もないのですから、面白いわけがありません。
ところが文字が減っていく、ということが事件であり冒険なのです。
ご飯を食べている途中で、何かの文字が消え、目の前の娘が消える。大事件です。
というわけで、この小説は面白いか、オススメなのか、と言われると少し困ってしまいますが、読んでみて損はないでしょう。
こういうことをする作家がいるんだ。こんな独創的な作品を、そんな昔に作ったんだ。なんて変なものを。という感慨だけでも、読む価値はあるものと思います。
ちなみに発売当初の単行本では、最終章が袋とじになっており、「ここまで読んで面白くないと思った人は、本を弊社まで送付ください。代金をお返しします」と書かれていたそうです。
かなり強気な攻めですね。