人というのは不思議なもので、誰もが”苦しみ”というものを持っているはずなのにその苦しみの形が違うだけで分かち合うことが難しくなる。
普通、同じ苦しみを持つものならその苦しみを共感しあえるはずなのに、何故こうも分かち合うことができないのか。
それは”その経験そのものもが違う”からだろう。
たとえば人から馬鹿にされ続けてたまりにたまった苦しみと、親から期待をされてプレッシャーがたまりにたまってそれが苦しみになってくる苦しみ。
この二つは苦しみという分類に入るが、しかし、経験というものが違う。
ここで人が人とぶつかり合う一つの原因となってくるのではないかと思う。
この二つをもっと別の言い方にしてみよう。(簡単に
人から馬鹿にされてきた
周りから期待をされてきた
とするとどうだろうか。
その違いがはっきりとわかるようになる。
苦しみは苦しみでもその経験の違いや受けてきた刺激の差が出てくる。
この二つを比べてどちらが本当に辛いか、なんて私にはわからないが
こういう経験を持っている人はそれを辛いと思うのは当たり前だろう。
人というのは、中々、その経験の差から人の感情に入りにくい傾向にあるように思える。
それは、お前に何がわかるとか、私の気持ちも知らないくせにということになるだろう。
まぁそういうとよくわかる。
もし、そういう立場の人間を励ましたとしてもその経験のない人だと励まされた人が知っていたのなら余計にそう強く思うだろうし、自分の心に入り込まれたくないのも当然かもしれない。
人というのは、同じようなもしくは似たような経験を持つものと共感し合えるようできている。
むしろ、それが人間の共同体意識なのかもしれない。
共同体意識というのは、簡単に言えば人間関係と思ってもらえばわかりやすいかもしれない。
人間は不思議と話の合う人と仲良くなったりするし、不良は不良同士で集まるように自分と似たような人間とくっつく傾向にある。
というように、苦しみを分かち合うのにはそこが重要になってくるのかもしれない。
だからといって、相手がしている経験を私たちができるはずもない。
だったらどうするのか?といわれると、それはとても簡単なことだ。
それは、小学校の頃、低学年で教わるような、そんな知識が役にたつ。
それが”人の立場になって考える”ということだ。
結局、人というのは誰もが手を差し伸べてくれる人をいつどこにいても望んでいるものと考えるべきだろう。
もし、誰かに手を差し伸べようと思うのならば、相手の立場になって考えてみるのが一番いいのだ。
自分が相手のような立場にあったらどう思うのだろうかとか、相手はそれでどんな気持ちでいるのだろうかとか
考え方は様々だが、それで共感できるようになるのであれば、それが一番有効的といえよう。
そして、何よりも相手が望んでいるものを与えてやることができる。
それが、”自分と同じ経験を持つ者”というものだ。
しかし、それは完全ではない、不完全なものだ。
けれどそれでいい。
人は誰もが少しでも自分の気持ちをわかってほしい、優先してほしいと思う生き物だから、少しの気持ちとその優先の気持ちをわかってやれば、何れ、心を開いてくれるだろう。
だから、苦しみを持つ者にどう接したらいいのかわからない人は私が言ったことを試してもらいたい。
ただ、それで成功するかどうかは私にはわからない。
なぜなら、文章だけの知識というのは、精神に宿る知識よりも劣るからだ。
知識というのは、使って使って使い方を自分で吸収していってそして漸く、精神に宿る知識。
いわば、”真の知識”として成り立つ。
だからもし、失敗したとしても挫けず頑張ってもらいたいと思う。
そうした努力はきっと報われるものになるだろう。
”人のために”と思うなら尚更だろうと私は思う。
End